2021年10月14日木曜日

天理教史特殊講義2/第5回

 
教祖の「ご苦労」とその時代背景


 皆さん、こんにちは。

 10月4日(月)から、天理大学の新型コロナウイルス対策フェーズⅢに下がり、履修者が50人以下の講義は対面授業に移行しましたが、この授業の登録者は50人以上ですので、当面はオンデマンド形式(ブログ/グーグルフォーム)を続けます。

 ただし、なるべく最後の数回は対面授業を行ない、学期末試験は通常通りに実施したいと思っています。試験はグーグル・フォームの設問から出題する予定ですので、毎回の解答をしっかり書き込むようにしてください。


明治政府の宗教政策の変遷

 これまでの講義で確認してきたように、明治10年代になって教理史/教会史のもとになる文献史料は、急激に増えることになりました。この時期の文献史料について、①対外的表明文書、②こふき本、③布教文書の三つに分けて説明しましたが、これらは互いに関連し合いながら相乗効果を生んでいたことを確認しました。

 その背景の一つは、この時期に教祖を通して伝えられた親神の教えが急速に広がりつつあったことです。しかし、その一方で明治維新以来の政府の宗教政策が二転三転しながら、この時期に基本的な方向性を確立しつつあったことも重要です。

 教祖のご苦労がこの時期に頻繁になり、教祖を中心とする人々の活動が取り締まりの対象となる理由を知るためには、明治10年代の法制度を理解する必要があります。また、ご苦労を回避するために、教会設置・公認運動が盛んになる理由を理解するためには、明治維新以来の政府の宗教政策の変遷を知る必要があります。

 ある意味では、ちょうど積極的な布教活動が取り締まりの対象となり、教会設置認可の必要性に迫られるようになった状況のなかで、教祖は基本的な教説をくり返して仕込み、積極的に教えを世界に伝えていくかたちをとったのです。時代の空気を読むときは、普通は当たり障りのないように行動しますが、教祖はむしろ反対の姿勢をとったとも言えるでしょう。

 複雑な経過をたどった、当時の宗教政策の変遷を簡単に説明するのは容易ではありません。しかし、当時の状況を考えるためには必要な知識ですので、教会設置・公認の歴史を辿る前に、一度寄り道をして整理しておきましょう。




 明治維新によって、250年も続いてきた徳川幕藩体制を一新した明治政府は、「王政復古」を掲げて、本来は家臣であるべき「権門」(藤原氏や平氏、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府など)が政治の実権を握っていた歴史を否定し、「天皇親政」の中央集権的な国家の樹立を目指します。

 そして、「祭政一致」の理念のもとに宗教的権威(祭)政治的権威(政)を一つにした、ある種の宗教国家の樹立を目指しました。これには、天皇の存在を神聖視することによって、その政治的権威を神格化する狙いがありました。このために、初期の明治政府は太政官(政治の中枢機関)の上に神祇官(祭事の執行機関)を置き、宗教的「まつりごと(祭)」政治的「まつりごと(政)」に優先させる古代の王政に倣った制度をつくります。




 神祇官の下には「宣教使」が置かれて、各地で宣教掛が新しい政治体制とともに「神道」の普及につとめました。しかし、神道国教化を推進するために発布した「神仏分離令」によって、各地で「廃仏毀釈」が行なわれると同時にこれに反発する暴動が起きるなど、社会が不安定になってきます。また、宣教使の人員不足各地の神社の不備などの問題点が露呈し、新政府は方針を転換することになりました。

「神仏分離」:明治政府が布告した祭政一致、神祇官再興に伴って生じた、神道と仏教を分離させる政策。明治維新の政治的理想であった王政復古・祭政一致を具体化しようとした。

「廃仏毀釈」:明治初年、政府の神道国教化政策に基づいて行なわれた、仏教の抑圧・排斥運動。慶応四年(1868)に神仏分離令が出されると、仏堂・仏像・仏具・経文などの破壊・焼却が各地で行なわれた。

 シンプルに言うと、神道を国教化することを諦めて、仏教や儒教などの外来の宗教も含めた、国内の宗教活動を政府が一元的に管理する体制に移行することになったのです。

 徳川幕藩体制のもとでは、日本各地の寺院は幕府の下部組織に組み込まれ、人々の戸籍や生活を管理していました。このため形式的には、江戸時代には仏教が日本の国教のような状況になっていました。

 新政府は、当初は神仏分離令によって仏教を排除しましたが、結局、全国に10万か所以上あったとされる各地の寺院とその住職たちを政策に組み込む方向に転換しました。敢えて言うなら、神仏分離から神仏合同へ方針が転換されたのです。この新しい教化体制明治初期の神道国教化政策と区別し、両者の連続性よりも断続性を強調する見方が、近年では主流になりつつあります。

 明治5年神祇官と宣教使は廃止されて、新たに教部省と教導職が設置され、東京の増上寺にすべての宗教活動を統括する機関として「大教院」が設置され、神道や仏教や儒教といった垣根を越えて、「三条の教則」「二十八兼題」といった国家の方針を国民に教化する政策を進めます。

 このとき設けられた「教導職」は、「神仏合同」の宗教家/聖職者の国家資格であり、医師や教員の免許と同じような資格でした。医師免許や教員免許、運転免許などが制度化されると、免許を持たない人が医療行為をしたり、学校の教員となったり、自動車を運転したりすることは許されません。こうして、一時期正式な宗教家は、この教導職に限定されることになりました。

 当時の具体的な状況は、神社の神官よりも仏教の事例を見る方がよく分かります。たとえば、教導職の制度に従って仏教諸宗派では、教導職試補以上でなければ僧侶として公認されない制度が法制化されます。

◎明治九年十二月十六日太政官布告一五六号:「僧侶と公認する者は諸宗教道職試補以上に限り候条、此旨布告候事」

 つまり、教導職でなければ、正式な僧侶としては活動できなかったのです。そして、教導職の資格を得るためには、専門の教育課程を受講して、資格試験に合格する必要がありました。しかし、この教育課程で学ぶ内容は、仏教とはかけ離れた内容のものであり、僧侶たちは不満を募らせていきます。

 また、教導職の僧侶でなければ、住職になることは不可能でした。

◎明治七年七月十五日教部省選三十一号:「自今教導職試補以上に無之向は寺院住職不相成候、此旨相達候事」

 江戸時代に庶民社会の中枢を担った仏教の僧侶たちでさえ、かなり宗教活動を制限されていたのです。

 しかし、明治4年から6年にかけて、アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された岩倉使節団が帰国すると状況が一変します。キリスト教の活動の自由と信教の自由を重視する外国からの圧力もあって、明治6年キリシタン禁制の高札を撤廃(太政官布告第68号)するとともに、明治政府は信教自由を認める方向に転換していきました。

 また、教導職の名目で神道色の強い宗教活動を強要されていた仏教各派からの反発信教自由の運動の高まりもあって、政府は明治8年5月「大教院」を解散し、仏教の各宗派や神道系の教派の活動の独自性を認めることになります。さらには、明治8年11月「信教自由の口達」を発して規制を緩めると、各宗派や教派のなかで宗教団体として独立(一派独立)する機運が高まりました。

 そして、明治17年になって教導職が完全に廃止されると、仏教各宗派や神道各教派は独立の宗教団体となり、各教団の統括者である「管長」を中心に、国民教化の活動を行なうことになります。しかし、管長の任命権は政府にあり、各宗教団体の活動の認可制度は、終戦によって日本社会の枠組みが根本的に変わるまで維持されることになりました。つまり、認可の条件を満たす宗教活動だけが認められる、条件つきの信教自由の制度に落ち着いたのです。

 簡単に整理すると、明治政府の宗教政策は、

①神道国教化政策(宣教使)/宗教国家の樹立
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②宗教家の国家資格化(教導職)/宗教活動の一元的管理
👇
③各宗教派「管長」の指示による国民教化/宗教活動の認可制度

というように、二転三転して最終的に宗教活動の認可制度が成立しました。

 この①~③の変遷の時期は、この講義で確認してきた教祖の「ひながた」の後半部であり、教祖を通して伝えられた親神の教えを広めるために、各地で布教活動が活性化していく時期と重なっています。こうした時代背景のもとで、未認可の宗教活動である教祖の教えを広げる人々の活動は、しばしば取り締まりの対象となっていくのです。

 それでは、この時期の宗教活動の公認(官許)の条件は、どのようなものだったのでしょうか。


官許の条件

 明治以降の宗教政策の基本的な前提は、国家の方針にもとづく国民の教化でした。その根底には、天皇の政治的権威を神格化し、中央集権の国家の枠組みを確立する意図がありました。この理念的な条件は、明治3年(1870)に明治天皇の名で出された「大教宣布詔(たいきょうせんぷのみことのり)」に闡明され、明治5年に制定された「三条教則」に具体的に示されました。




「第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事」
「第二条 天理人道ヲ明ニスベキ事」
「第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」

という基本方針が定められ、この教則を人々に伝えることが教導職の役割になります。さらには、三条の教則は「富国強兵」「文明開化」といった、皆さんもよく知るスローガンを含む28のテーマ(二十八兼題)に具体化され、教導職が社会教育に使う教科書も整備されました。

 その後、教導職が廃止されて信教の自由が認められると教科書はなくなりましたが、少なくとも昭和20年の終戦までは、この三条の教則を順守することが、宗教活動の認可を得るための大前提になります・・・理念上の条件

 また、当時の教祖周辺の人々の活動と深く関わる出来事は、教導職が設けられて神仏合同の国民教化活動が進められるなかで、明治6年「教会大意」が出されたことです。これによって、江戸時代には正規の「宗門」である仏教各派のように、幕藩体制の下部組織に組み込まれていなかった民間の宗教活動も、認可制度の枠内に組み込まれて行くことになります。

是迄於各地方結社候 黒住 吐普加美 富士 御嶽 不動 観音 念仏 題目 等神仏諸講中其方法検査之上各一派之教会二可相立候条右教会大意二照準シ

 ここで名前の挙がっている「黒住講(黒住教)」「吐普加美講(禊教)」、「富士講(扶桑教・実行教)」「御嶽講(御嶽教)」などは、のちに教派神道として組織化される民間の信仰活動です。また、「不動講」「観音講」「念仏講」などは、各地の民衆が自発的に行っていた宗教活動でした。これらの多くは、のちに仏式教会として仏教各宗派に吸収されて行きます。日蓮系の在家団体である「題目(南無妙法蓮華経)講」は、独自の組織化を遂げて現在の日蓮系の宗教団体(創価学会、立正佼成会、霊友会など)の源流になっていきます。

 これによって、民衆の宗教活動にも教導職の制度化とともに、活動を「教会」として組織化することが求められ、さらに「当省へ伺出」「許可ヲ受」けることが要請されたのです。このため、これらの講組織と同じように、この時代に布教活動を活発化した教祖の周囲の人々には、「教会」を設置して活動の「認可」を受けることが求められるようになりました・・・事実上の条件


教会設置と地方庁認可

 さらに、明治14年には「教院・教会所・説教所等にて葬儀執行、衆庶参拝のこと禁制の件」が法制化され、「教会」の役割は国民教化であることがより強調されていきます。宗教団体の役割は、葬儀や参詣などではなく国民の道徳教育だとされたのです。こうして、教会の組織化と認可のハードルは、一段と高くなっていきました。明治17年に、教導職制度は廃止されますが、その一方で住職その他、布教伝道の前線に立つ者は、相当の「徳操学識」のあることが望ましい、とされるようになります。

 こうした政府の要求が、のちに天理教が一派独立する際に、教育機関を設置したり教義の整備が求められる理由の一つになります。また、明治15年には「神社所属の講社の結集は、内務省へ稟伺(りんじ)の件」が出され、正式な宗派や教派に所属する神社や寺院に所属する「教会」も「内務省」への届出が必要になります。



 さらに、明治16年には「教会・講社結集、説教所設置許可のときは、当事者より地方庁へ届出せしむる件」が定められて、新たに教会や講社などの宗教組織を結成した場合には、たとえそれが認可された教派や宗派に所属する組織であったとしても、個々に地方庁に届出をして、認可を受けることになります。

 この「地方庁への出願と認可の制度化」は、天理教の歴史と深く関わりますので、よく覚えておいてください。初代真柱さまを中心とした人々は、明治18年「神道(本局)」という神道系の教派の一つに所属する「教会(天理教会)」を組織しますが、この法律があったために教会の設置だけでは活動の自由を得ることはできず、明治21年に認可を得るまでは自由な活動を制限されることになりました・・・詳しいことは、次回の講義で説明します。


違警罪と教祖のご苦労

 ここで紹介してきた、政府による宗教活動の認可の制度化教会大意による講の組織化地方庁への出願の義務化、といった宗教政策を教祖のご苦労に直結させたのが、「違警罪」の成立です。

 違警罪は、旧刑法(明治一三年太政官布告三六号)に規定した拘留、科料にあたる軽い罪のことです。現在の軽犯罪にあたります。

  当初は、違警罪を管轄する治安裁判所を設ける予定でしたが、違警罪即決例(明治18年・太政官布告三一号)により、正式な裁判を経ないで警察署長が、即決処分によって処罰することが認められるようになりました。

 このことが、とくに明治18年以降に、教祖のご苦労が頻繁にくり返されたことの理由です。




 もともとは、人口が増大しつつあった東京や大阪などの大都市において、さまざまな迷惑行為を取り締まるための法規が定められたことが始まりです。明治5年「違式詿違条例(いしきかいい じょうれい)」が東京府の布達として出されると、これが各地に広がりました。基本的には、不衛生な習慣マナー違反を取り締まるものであり、刑事罰に処すほどではない迷惑行為を禁ずるものです。




 こうした禁止条項が、自由民権運動などの政治活動の取り締まり未公認の宗教活動の規制にまで広げられていきました。

 基本的には迷惑行為を取り締まるための法令でしたが、官許を得ていない私設の社寺の禁止結社・集会の制限医療行為の制限、といった違警罪の禁止事項が適用されて、教祖のご苦労の直接的な理由になっていきます。




 さらには、先にも記したように、明治18年に即決例が制定されると、裁判を行なわずに警察署長が独断で即決処分を下すことが可能になりました。そうすると、はっきりした罪状がなくても教祖が警察へ連れていかれる状況になります。

 こうした状況を打破するためには、正式な「教会」組織をつくり、その設置申請を地方庁(現在の天理市の地域は、当時の大阪府の一部)に届出し、活動の認可を得る必要がありました。だから、明治14年頃から教祖のご苦労が頻繁になり、警察などに提出される手続書が増えると同時に、教会設置及び活動認可を受けるための申請書類が多くつくられるようになるのです。

 そして、あたかもこうした時代状況に合わせるように、教祖は「こふき」を人々に仕込み、親神の教えを広く世界に伝えられたのでした。

◎次回以降は、天理教会の設置運動と認可までのプロセスについて、『稿本天理教教祖伝』と『稿本中山眞之亮伝』をもとに辿っていきます。

 この授業は、オンデマンド形式です。このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。


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