「こふき」本の成立とその時代
*第1回からの授業をブログに順次公開しています。「ホーム」から閲覧できますので、試験等の準備に役立ててください。
明治14年頃の基本教理
教祖の啓示/親神の教えに触れた人々は、そのメッセージをどのように理解し、他者に伝え、世界に発信してきたのでしょうか。
最初に確認しておきますが、この授業の主題は、こうした人々の営みの歴史的経緯をたどり、明治期から昭和期にいたる政府の宗教政策や社会の動向を意識しながら、天理教の教会史を確認していくことです。
前回までの講義で確認したように、この作業のために不可欠な文献史料は、教祖の「ひながた」の期間(1838~1887)の晩年になって、急速に増えてきます。その理由については、あらためて説明しませんが、前回は明治14年のご苦労の際に提出された手続書を事例として紹介しました。
*さらに確認が必要な人は、前回・前々回のブログを再読してください。
警察署等に提出された手続書は、正式な文書であり、信頼できる文献史料です。この手続書のひとつのなかで、記載者である山澤良治郎が教祖から聞いた教えを書き記していました。簡潔にまとめられていますが、教祖から直接に教えを受けた人々が、その内容をどのように理解していたのかを知るうえで、極めて貴重な文献になっています。
その概要は、次のようなものでした。
まず、「月日のやしろ」である教祖によって、この世界と生命の根本的な真実が明かされたこと。さらには、「かしもの・かりもの」、「十全の守護」、「八つのほこり」、「かんろだい」が据えられる世界の実現というように、教祖を通して伝えられた教えの概要がまとめられています。
警察の取り調べに対してまとめられた文書とは思えないほど、きちんと整理された説明になっています。普段から体系的に教えを理解をしていなければ、このような書類に組織立てた教理をまとめて記すことはできません。
この手続書が提出された明治14年頃には、少なくとも教祖の身近な人々には、教祖を通して伝えられた啓示/親神の教えの内容が体系的に理解されており、それを他者に伝えるかたちが出来ていたことが分かります。
「原初天理教に於ける表明文書」には、上記の手続書に加えて、もう一つ明治14年10月8日付の手続書が掲載されています。こちらの文献には、十全の守護の説き分けがより詳しく記されています。
こふき本の成立
さらには、「神の最初の由来」と「神の古記」という2種類の文献が掲載されています。この二つの文書は、大阪明心組(船場大教会)の梅谷四郎兵衞が阿弥陀池の和光寺に教会公認の願い出をした際に、提出された文書を諸井氏が書写したものです。
「神の最初の由来」には、立教の出来事を中心にした教祖の履歴(つまり、シンプルな教祖伝)がまとめられています。続く「神の古記」には、「元はじまりの話」を中心にした教祖の啓示/親神の教えの概略が詳しくまとめられています。これらは、教会設置の請願書に添付された書類ですが、内容はこの頃に教祖が身近な人たちに集中的に説いた教えをまとめた「こふき本」と同じものです・・・②
明治十三年から十四年頃、教祖は身近な人々にまとまった教理を何度もくり返して話して聞かせました。これが今日、「こふき話」と称されるものです。この教理の話しは、教祖に代わって親神の教えを取り次ぐ「取次」ないし「取次人」を養成し、仕込むためのものであり、教祖は何度もくり返して同じ話をされたようです。
また、ちょうど同じ頃に教祖は、側近の人々に「こふきを作れ」と仰せられました。このため人々は、それぞれに教祖から聞いたお話を書きまとめて提出します。このことは、当時書きとめられた写本の一つに、次のような記述があることからも明らかです。
「にち/\にをはなしありたその事を くハしくふでにしゆるするなり」(和歌体十四年山澤本)
こうして書きとめられた写本が、「こうき話写本」とか「こふき本」と呼ばれるものです。
最も古いものでは、明治14年に書き記された「十四年本」から、教祖が現身をかくされる明治20年まで、かなり多くの写本が伝存しています。明治14年の写本には、「おふでさき」と同じように和歌で書き記された「和歌体」のこふき本があります。しかし、多くは「散文体」で基本的な教理をまとめています。
また、一般的な和綴本の体裁をとった写本ばかりでなく、かなり大きな巻物の写本もあるなど、その体裁はかなり多岐にわたっています。とはいえ、記載された教理の内容自体は、教祖がくり返して話し聞かせたものです。このため、基本的にはどの写本もほぼ同じ内容になっています。
ただし、言い伝えによると教祖は、どの写本についても「これでよい」とは仰せられなかったとされています。このため、教祖直筆の「おふでさき」や「みかぐらうた」、教祖や本席を通して伝えられた神言をそのまま書き取った「おさしづ」などに比べて、啓示の直接性は低いと考えられています。
しかし、その内容は教祖がくり返して仕込まれた基本的教理であり、教祖を通して伝えられた親神様の教えの内容を知るうえで、極めて貴重な文献であることに間違いはありません。とくに教理史にとっては、教祖の教えを受けた人々が、それぞれに自分なりに理解した教理をまとめていることに意味があります
その内容は、「元はじまり」の話を中心にした基本教理です。明治十四年の写本にはありませんが、明治十六年以後の写本の多くには、「前の部」として教祖の略歴が附記され、とくに立教の経緯について詳しい説明があります。ここで「神の最初の由来」と「神の古記」がセットになっているのは、決して偶然ではありません。
元はじまりの話が主要な部分を占めるために、しばしば「泥海古記」や「神之古記」といったタイトルが表紙に記され、古くは「泥海古記」などと呼ばれていました。しかし、原典とともに「こふき本」についても深く研究した中山正善・二代真柱様は、「こふき」を「古記」と表記するのではなく、「口記」と漢字表記するべきではないか、と提言しています(「こふきの研究」)。
実際に「こふき本」を手にすると、人間と世界の創造の説話だけが説かれているのではなく、元はじまりの話を中心に、さまざまな基本的教理が順序立ててまとめられていることに気づきます。そのことは、「原初天理教に於ける表明文書」のなかで紹介されている、「神の古記」にも共通しています。
「こふき本」では、この世界と生命の創造について伝える「元はじまりの話」は、「月日のやしろ」として親神の思召を人々に伝える教祖の立場と、深くかかわっていることが強調されています。また、その内容は教祖によって伝えられた教えの中核である「かぐらづとめ」の形式と、その意味を説明するものであることが詳しく説かれています。
さらには、「十全の守護」の詳しい説明にはじまって、一人ひとりの人間が「かしもの・かりもの」の真実に目覚めて「八つのほこり」を反省し、親神様の思召に沿った生き方が出来るようになれば、「ぢば」に据えられた「かんろだい」を中心として教えられた通りの「つとめ」が完成し、神人和楽の「陽気ぐらし」世界が実現すると説かれています。
古い写本を朗読すると、当時の教祖の面影を感じて目頭が熱くなることもあります。シンプルな表現のなかに、極めて深い意味を含んだ言葉や表現が少なくなく、簡単に理解することはできませんが、教祖を通して伝えられた親神様の教えを深く全体的に理解するうえで、極めて重要な文献であることは間違いないでしょう。
「こふき本」に記された内容は、教祖が現身をかくされた後に制度化した「別席」の内容に引き継がれるとともに、教祖が取次人にくり返して話し聞かせた伝承の形式は、九回同じ内容の話を聞いて「さづけ」の理を戴く、別席制度の在り方につながります。
警察等に提出された手続書に体系的な教理が詳しく述べられているのは、こうした教祖の先人の方々への教えの仕込みと無関係ではないでしょう。また、教会活動の公認のために提出された書類には、基本的に「こふき」をベースにした教理と教祖の履歴が添付されました。
前回の講義で①対外的表明文書、②こふき本、③布教文書に分類した、この時期に急増する教理関係の文献史料は相互に関連し合っていますし、そのことがこの時期を教理史/教会史の起点とする理由になっているのです。
「こふき」と布教文書
幕末の文久・元治・慶応年間の人々は、基本的には病気の平癒を求めて、教祖のもとに集まっていました。第2回の講義で紹介した「御神前名記帳」の内容を思い出してください。
しかし、教祖は慶応年間から「つとめ」を教えはじめ、明治2年には「おふでさき」の執筆を始めます。さらには、明治8年には「ぢば」の地点を明示して「つとめ」の完成を急き込み、「かんろだい」据えて「かぐらづとめ」が勤習される世界の実現を説きました。
各地の講社で活動する人々の目的もまた、個人の病気の平癒から「陽気ぐらし」という理想世界の実現に転換していきます・・・講から教会へ。こうして、各地で布教活動が活発になると、教祖のご苦労がさらに頻繁になり、教祖のご苦労を回避するために教会設置と公認に向けて活動が活発になって、さらに教理関係文書は増えていくことになりました。
「原初天理教における表明文書」には、「天輪王講社信心道書抜」(明治16年3月)と「天輪王講社成立ヨリ事状上申書」(明治17年7月)という遠江真明組(山名大教会)の講社に関連する文書が記載されています。
講元である諸井国三郎の書き記した「天輪王講社信心道書抜」は、入信前後の人々に対し、教祖の教えと講社の活動の概要を説明した文書です。その冒頭には、次のように記され
ています。
天りんおふ講社は、おがみ、きとふ、をするのでは、ありません。しんじんの道を、おつたへ申すので、おはなしを、よくきかないと、御りやくは、ありません。
この道は、拝み祈祷で病気の平癒を祈る信心ではなく、教祖を通して伝えられた親神の教えをよく心に治めて、身に行なうことの大切が強調されています。そのうえで・・・
そもそも、天りんおふの命と申は、大和国山辺郡庄屋敷村中山氏の御老母当明治十七年八十七才の御方へ、四十七年、いぜんに、月日様が、あまくだりましての、おはなしには、
と続けて、この教えは天保9年に「月日のやしろ」となられた、教祖への啓示の教えであることが確認されています。そして・・・
人間は、元、どふして、出きたか、又、国のはじまりは、大和といへども、どこが、はじまりか、しりたるものはなし、只ひとりでに、せかいも、人間も、できたよふに、おもふて、おれがからだはおれがかつてだと、おもい・・・是みな心ゑちがひなり。
と述べて、親神の教えを通して親神の守護に満たされた世界のなかで生かされて生きていることを知り、これまでと現在の人間のあり方を見つめ直すことの大切さが説かれています。そして、そこから・・・
このよふのはじまりは、どろの海、この中にて、クニトコダチの命、スナハチ御月様なり、この御かたより、ヲモタリノ命、スナハチ御日様なり、この御かたへ、だんじかけ、人間をこしらへ・・・
というように「元はじまりの話」が説かれて、さらに「十柱の神の守護」、「八つのほこり」、「かしもの・かりもの」といった基本教理を詳しく説いたうえで、講中の活動を説明しています。
各地の講社の活動は、教祖を通して伝えられた親神の教えを広く世界に伝え、教えにもとづく生き方を広げることによって、理想の世界の実現を目指す方向へシフトしていることがよく分かります。
また、次の「天輪王講社成立ヨリ事状上申書」には、より具体的な講社の活動の様子が記録されています。講社の成立の経緯を記したうえで・・・
入社を乞者多く有之、依りて講社中の規定定、毎月二十六日、社中集会を開き、共に真の天理人道を明弁研究して、人の人たる道に至り、真儀を厚うし、各業を勤、相助會国家の降伏を祈、
というように、講社の活動を説明しています。定期的に講中の人々が集まって、さまざまな活動をしていたようです。とくに興味深いのは、次のような「つとめ」の説明です。「つとめ」は、ただの踊りや舞いではないと理解されています。
一、毎月二十六日集会の節神拝の御勤と申して十二下りと申して十二下りと云ふて一と下り毎に一より十二迄歌十づつあり、其前に八つ歌あり、合して百二十八の歌に、各手品致し、是は手踊にあらず、舞にあらず、前にも有之候、人間口と手と心と手と揃わねば、真の人にあらず、故に真の学を致、神の御心に習わして真儀を厚うすると云う理なり。
鳴物は太鼓笛拍子木三品。但し勤の人員は六人、何れも講社員に限り尤も社員の家族は社員に同様に御座候
この上申書には、これらの日常的な活動の内容に加えて、講社の会費や具体的な組織機構などが詳しく記されています。同じような記録や文書は各地の講社に残されているはずですので、さらに広い範囲の文献史料を渉猟したいと思っています。
こうして、布教拠点としての講社の活動が活発になればなるほど、教祖のご苦労は頻繁になり、教会設置・公認の運動が盛んになっていきました。
明治14・15年頃の教理文書
諸井慶徳は、「原初天理教に於ける表明文書」に掲載した文書を総括して、「かかる本教の根本教理が、矢張これらの古文書にはっきりと書き記されていることは、これまた大なる参考になることであろう」と記しています。
ここでは便宜的に、①~③に区分して紹介しましたが、これらの教理文書に共通しているのは、教祖がくり返して仕込まれた親神の教えが、当時の人々にはある程度体系的に理解され、広く世界に発信されていたことです。
①~③の相関と相乗効果によって、この時期から教理関係文献はさらに増えていきます。しかし、教会設立から活動の公認を経て、さらに一派独立へと歩む歴史的変遷のなかで、前の講義でも紹介したように、表向きに表明される「教義」と個々の信仰を支える「教理」を二重構造化せざるを得ない状況が生じます。
これから、終戦を迎えて「原典」にもとづく『天理教教典』が刊行され、『稿本天理教教祖伝』が編纂されるまでの歴史を辿っていくこの授業の教理史/教会史にとっては、「神道(本局)」所属の教会として設置され、活動の認可を受ける天理教会の歴史や「別席制度」の成立といった出来事が大きな意味を持っています。また、こうした歴史的経緯における「おさしづ」の役割なども重要でしょう。しっかり内容を理解して、基本的な概念や用語を覚えるようにしてください。ただし・・・◎
◎次回は、教会設置・公認運動の歴史的な展開を紹介する前に、教祖のご苦労や教会公認運動の背景にある、明治政府の宗教政策と法制度について簡単に説明します。少し寄り道になるかも知れませんが、こうした歴史的背景を知ることによって、天理教史の理解がより深まるはずです。
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