前回の講義では、教会設立・公認運動の背景となる明治政府の宗教政策の変遷と、教祖のご苦労に関わる違警罪などの法整備について確認しました。これらを踏まえて、今回の講義では『稿本天理教教祖伝』をもとに、天理教会設置運動の足跡を辿っていきます。
まず、「教会」の原型となる「講」について、簡単に説明します。
「講」の形成
「講」は、もともと仏典の講義や講読を行なう僧侶の集まりを意味する言葉であった、と言われています。それが次第に、地域社会において宗教行事を行なう集団やその行事・会合を指すようになり、さらに相互扶助的な団体や会合などを意味するようになりました。
中世に起源をもつ民俗信仰的な講に加えて、念仏講/報恩講(浄土系)や法華講/題目講(日蓮系)などの同信の人々の集まりも講集団を形成していきます。また、各地の霊場への参詣を促す参詣講が形成されるようになり、近世には伊勢神宮へ参詣する伊勢講や富士山を霊場とする富士講などの参詣組織が各地に形成されました。さらには、伊勢の御師に代表されるような、寺社への参詣を促す人々の活動も広がります。
とくに、平和な時代が長く続いて人々が地域社会に定着化した江戸時代には、宗教的な講組織ばかりでなく、経済的な互助制度や職業集団の協同組合のような「講」も発展しました。江戸時代の後半には、固定化された寺檀制度とは別に、庶民の宗教活動として多彩な講が各地で発展します。
*興味のある人は、桜井徳太郎『講集団の研究』などの研究成果を参照してください。
前回の講義で確認したように、明治政府は宗教家の国家資格ともいうべき「教導職」を制度化し、大教院を中心とした国民教化活動を展開する一方で「教会大意」を発布し、江戸時代の宗教的な講を「教会」として組織化して、宗教活動の認可制度に組み入れていくことになりました。
江戸時代の参詣講のなかで、もっとも大きな組織は伊勢神宮へ参詣する伊勢講です。この組織は、のちに神道系教派の「神宮教」として組織化され、さらに民法の制定後は、財団法人化して「神宮奉斎会」となります。同じように富士山や御嶽山、出雲大社への参詣講も教派神道の独立教派を形成していきました。
ちなみに、参詣講ないしは代参講とは、有名な神社や仏閣へ参詣者を定期的に送り出すために組織された地域的な結社のことです。遠方から伊勢神宮や富士山へ参詣するためには、時間も巨額の費用もかかります。しかし、20件や30件の講をつくって費用を出し合えば、毎年代表者を参詣させることができますし、順番が来れば自分も一度は、仕事や生活を離れて参詣の旅に出ることができたのです。
明治6年、キリシタン禁制の高札を撤去した政府は、とくにキリスト教の影響拡大を警戒して、日本の宗教活動の活性化を促します。このため、民間の「講」を「教会」として組織化し、積極的に活用しようとしたのです。
しかし、「教導職」を設置する以上は、宗教者として認可する人物にはそれなりの教養と品位が求められます。また、前回の講義で確認したように、宗教活動の認可の前提は「三条の教則」に象徴される国家の方針に従うことでした。明治7年に、教祖が奈良の「中教院」に呼び出されるのは、ちょうどこの時期のことです。
中教院:国民教化のために、神仏合同の機関として東京に設置された「大教院」の分院として、各府県に「中教院」、各地に「小教院」が置かれた。大教院は国民教化の基本方針や教科書等を制定し、各府県の「中教院」では教導職の養成(講習や試験)が行なわれた。
『稿本天理教教祖伝』は、明治11年頃の様子を次のように伝えています。
「講を結べ。」と、お急込み頂いたのは、文久、元治の頃に始まり、早くもその萌しはあったが、明治十一年四月頃には、秀司を講元とする真明講が結ばれて居た。小さいながらも、親神のお急込み通り、人々の喜びを一つに結ぶ講が出来て居たのである。世話人は、仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衞、中尾休治郎で、講中の人々は、近在一帯の村々に及んだ。(142~143頁)
教祖を「月日のやしろ」と慕う人々は、幕末の頃には「講」を組織化するようになります。それが明治10年代には、ある程度まとまった組織になっていました。さらには、教祖が「つとめ」を急き込み、多くの人々が「ぢば」へ参詣する状況のなかで、活動の認可を受けるために「教会」を設置する機運が高まります。
ちょうどその頃、乙木村の山本吉次郎から、同村山中忠三郎の伝手を得て、金剛山地福寺へ願い出ては、との話があります。これに対して、教祖は「そんな事すれば、親神は退く」と厳しく反対されます。しかし、長男の秀司先生は教祖や周囲の人々のことを思い、わが身はどうなってもとの覚悟で仏式教会の設立を進めました。
このとき、吉野へ向かう途上で通ったとされる芋が峠の古道(上写真)を歩いたことがあります。驚くほど傾斜のきつい山道であり、足が不自由であった秀司先生にとっては、精神的にも肉体的にも、極めて困難な道筋であったことを実感しました。
とはいえ、明治13年9月22日(陰暦8月18日)には、転輪王講社の開筵式が行われます。この仏式教会(仏教宗派ないし寺院所属の教会)は、教祖の思召に合わないばかりでなく、設置認可を可能にする教会組織とは言えないものでした。このため、明治15年には廃止されています。
しかし、開筵式を契機として講社の名簿が整頓されます。『稿本天理教教祖伝』によれば、「名簿は第一号から第十七号迄あって、中、第一号から第五号迄は大和国、その人数は五百八十四名、第六号から第十七号迄は河内国、大阪、その人数は八百五十八名、しめて千四百四十二名である。」(150頁)とされています。
この名簿によって、当時の教勢の規模をかなり具体的に知ることができます。「大和国天輪王講社名簿」と「河内国天輪王講社名簿」が現存しており、ほかに明治14年と明治15年の名簿が残されています。この時期には、中山家の「真明講」を中心にして、各地の講を結ぶ教会組織のあり方が、すでに構想されていたことを伺い知ることができます。
*詳しくは、高野友治「天輪王講社名簿調査報告書 上・下」(『復元』5・11号)を参照してください。
前回・前々回の講義で確認したように、この時期には教祖の教えを体系的に理解した人々が各地で活発な布教活動を展開します。その一方で、教会の組織化を求める認可制度が確立し、違警罪による取り締まりの強化が現実的なものになっていました。
こうしたなかで、各地の講の組織化と教会の設置認可を求める動きがさらに活発化していきます。『稿本天理教教祖伝』には、次のような記載があります。
明治十四年頃には、講の数は、二十有余を数えるようになった。即ち、大和国の天元、誠心、積善、心実、心勇、河内国の天徳、栄続、真恵、誠神、敬神、神楽、天神(後に守誠)、平真、大阪の真心、天恵、真明、明心、堺の真実、朝日、神世、京都の明誠等である。
又、この年十二月には、大阪明心組の梅谷四郎兵衞が、真心組とも話し合った上、大阪阿弥陀池の和光寺へ、初めて教会公認の手続書を提出した。しかし、何等の返答も無かった。(159頁)
この時期には、講の名称は以前の講義で紹介した「御神前名記帳」に出てくる地域名ではなく、かなり抽象的で教理と関連する名称に変わっています。講社に関わる人々の関係性は「地縁」から「理縁」に変化し、同じ地域に住む人々の集まりではなく、同じ教えを信じる人々の共同体が、形成されるようになったのではないでしょうか。
『稿本天理教教祖伝』には、明治15年の講社名簿について、次のような記載があります。
神清組(教興寺村)、天神組(恩知村)、神恵組(法善寺村)、神楽組(老原村)、敬神組(刑部村)、清心組(国分村)、神徳組(飛鳥村)、榊組(太田村)、一心組(西浦村)、永神組(梅谷村)、平真組(平野郷)、真実組(大和国法貴寺村、海知村、蔵堂村、檜垣村)、天恵組(大阪)、真明組(大阪)、明心組(大阪)、信心組(大阪)、真実組(堺)、心勇組(大和倉橋村出屋舗方講中)、誠心組(同国佐保庄村講中)、信心組(同国忍坂村講中)、神恵組(堺桜之町講中)
以上、大和国五、河内国十、大阪四、堺二の講社が結ばれて居り、その他この名簿には見えないが、この以前からあったものに、天元、積善、天徳、栄続、朝日、神世、明誠等がある。当時、講元周旋の人々は、山城、伊賀、伊勢、摂津、播磨、近江の国々にもあり、信者の分布は更に遠く、遠江、東京、四国辺りにまで及んだ。(250頁)
この時期には、かなり広い範囲で講社を中心にした布教活動が行われています。当然のことですが、このような状況を背景として、教祖の御苦労はさらに頻繁になっていきました。
「天理教会」設立の歩み
こうして、各地の講社を一つにまとめて「教会」を設置し、活動の認可を受けるための活動が活発になっていきます。『稿本天理教教祖伝』の記述をもとに、この時期の教会設置運動を整理すると、次のようにまとめることができるでしょう。
明治17年頃になると、教祖の身辺状況がより厳しくなるなかで、各地で教会設置や宗教活動の認可を申請する動きが盛んになります。また、その一方で京都の明誠社のように、独自の活動をはじめるケースも出てきます。
こうしたなか、「大日本天輪教会」の名称で全国的な教会を組織化する運動がはじまります。当時、信者達が定宿にして居た村田長平方に「教会創立事務所」の看板をかけるまでに到りました。しかし、信仰よりも組織化を優先する方向性は神意に沿うものではなく、初代真柱さまを中心とする教会設置の重要性が、教祖より示されます。
少し長くなりますが、このあたりの消息を『稿本天理教教祖伝』から引用しておきましょう。
竹内等の計画は、次第に全国的な教会設置運動となり、明治十八年三月七日(陰暦正月二十一日)には、教会創立事務所で、眞之亮、藤村成勝、清水与之助、泉田藤吉、竹内未誉至、森田清蔵、山本利三郎、北田嘉一郎、井筒梅治郎等が集まって会議を開いた。その席上、藤村等は、会長幹事の選出に投票を用いる事の可否、同じく月給制度を採用する事の可否等を提案した。
議論沸騰して容易に決せず、剰えこの席上、井筒は激しい腹痛を起して倒れて了った。そこで、教祖に伺うた処、「さあ/\今なるしんばしらはほそいものやで、なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者になるやわからんで。」と、仰せられた。この一言で、皆はハッと目が覚めた。竹内や藤村などと相談して居たのでは、とても思召に添い難いと気付いたのである。(276~277頁)
こうして、初代真柱さまを「芯」とする教会設置運動が本格化し、明治18年4月に「天理教会結収御願」を大阪府知事宛に提出しますが、これは却下されました。大阪府知事宛になっているのは、現在の天理市の地域は、当時大阪府の管轄だったからです。
その一方で、この年の3月から4月にかけて、大神教会の添書を得て「神道(本局)」の管長宛に、初代真柱さま以下10名の教導職補命の手続きが行なわれ、5月20日付けで教導職の補命と「神道直轄六等教会」の設置が認められています。
ここで重要なのは、このとき補命された「教導職」は、すでに政府の認定資格ではなくなっていたということです。明治17年に、神道及び仏教の教導職はすべて廃止になり、神道系の教派と仏教系の宗派は一派独立し、それぞれ各教派や宗派を代表する管長のもとで国民の指導にあたることになります。
政府は、依然として宗教家に国民を教導する役割を期待しましたが、各教派や宗派の活動の自由を認めることになったのです。このため、神道系の教派をまとめていた国の機関である「神道事務局」は解散されました。
しかし、「神道事務局」には未だ一派独立できない、さまざまな教会が残されており、明治18年に稲葉正邦を管長として、新たに独立の教派を設立することになります。この教派として設立された「神道事務局」は、翌明治19年に「神道(本局)」に改組されました。「神道(本局)」と括弧を付けているのは、正式名称を「神道」としたからです・・・のちに「神道大教」と改称。
教導職の廃止とともに、「神道事務局」からは所属していた神道系教派のほとんどが独立し、教派として発足した当初の「神道事務局/神道本局」には、一派独立できない教会だけが残されました。このため、活動の規模を広げるために未公認の宗教活動を積極的に取り込んでいきます。このときに、金光教会(金光教)や神理教会(神理教)などともに、所属教会の一つとして設立されたのが「天理教会」です。
初代真柱さま以下十名の人々が補命された教導職は、国家資格の教導職ではなくて、教派として独立した「神道(本局)」の教師の資格でした。また、しばしば誤解されるのですが、「神道直轄六等教会」というのは「神道(本局)」という神道系教派に所属する教会という意味であり、ここでの「神道」は「キリスト教」や「仏教」のような、宗教のカテゴリーの名称ではありません。
明治18年に「神道天理教会」を設立した段階では、「神道事務局」はまだ、多様な神道系教派を管理・監督する公的機関の性質を色濃く残していました。管長となった稲葉正邦は、その経歴から考えても宗教家というよりは、むしろ官僚的な人物でしたし、もともと政府の役人の立場で神道系の教派を管理していた人です。しかし、明治19年に「神道事務局」は、完全な独立教派である「神道(本局)」に改組されます。
「神道(本局)」が独立の教派としての活動を本格化させると、所属教会の活動内容が本体である教派とあまりに食い違うことは、しだいに問題視されるようになりました。
この段階になって、明治19年5月28日に神道管長・稲葉正邦の代理として権中教正・古川豊彭、随行として権中教正・内海正雄、大神教会会長・小島盛可の三名が取調べのために、中山家へやって来るのです。このとき、天理教会からは神道本局に五ケ条の請書(明治19年5月29日付)が提出されました。『稿本天理教教祖伝』には、以下の本文が記載されています。
註五:
御請書一 奉教主神は神道教規に依るべき事一 創世の説は記紀の二典に依るべき事一 人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事一 神命に托して医薬を妨ぐべからざる事一 教職は中山新治郎の見込を以て神道管長へ具申すべき事但し地方庁の認可を得るの間は大神教会に属すべき事右の条々堅く可相守旨御申渡に相成奉畏候万一違背仕候節は如何様御仰付候共不苦仍て教導職世話掛連署を以て御請書如此御座候也中山新治郎飯降伊蔵桝井伊三郎山本利三郎辻忠作高井直吉鴻田忠三郎神道管長代理 権中教正 古川豊彭殿
まず最初に、「奉教主神は神道教規に依るべき事」として、信仰対象となる神は古事記や日本書記に記載のある日本古来の神とする、という約束をします。そうしないと、天理教会の母体である教派(神道本局)とは、信仰や教えの内容が食い違うことになるからです。しかし、神道教規には「天理王命」という神名はありませんでした。とはいえ、「天理王命」の神名を使用しなければ「つとめ」はできません。
つまり、表向きは神道教規にしたがう約束をすることになるのです。また、「創世の説は記紀の二典に依るべき事」や「人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事」といった約束にしたがえば、「こふき」に説かれる「元はじまりの話」や基本的な教祖の教えは、そのまま伝えることが出来なくなるでしょう。
このあたりから、表向きに表明される「教義」と実際に説かれる「教理」の二重構造化がはじまります。
とはいえ、教会を設立しただけでは、活動の自由は得られません。前回の講義で紹介したように、明治16年には「教会・講社結集、説教所設置許可のときは、当事者より地方庁へ届出せしむる件」が定められて、新たに教会や講社などの宗教組織を結成した場合には、たとえそれが認可された教派や宗派に所属する教会・講社であったとしても、個々に地方庁に出願して認可を受けることが義務化されました。
このため、明治18年に「神道(本局)」所属の「天理教会」が設立されても、教祖の御苦労は続くことになるのです。そして、明治20年正月26日(陽暦2月18日)に、教祖は現身をおかくしになりました。
◎次回は、教祖が現身をおかくしになったあとの教会公認活動と教会本部の設置、各地の教会の設立について『稿本中山眞之亮伝』を中心に紹介します。
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