2021年10月28日木曜日

天理教史特殊講義2/第7回


教会設立から教会公認へ

  前回の講義では、『稿本天理教教祖伝』をもとに「天理教会」設置運動の足跡を辿りました。明治6年の「教会大意」によって、江戸時代に発達した各種の民間の宗教活動=「講」「教会」として再組織化され、その活動は政府や地方庁の認可を受けるという認可制度が確立していきます。

 明治以降の社会のさまざまな領域に設定された、この「官許」のシステムが制度化されると、自動車の運転免許が制度化されると無免許運転は許されないように、未認可の宗教活動自体が規制の対象となります。さらに、「官許」を得ていない活動の取り締まりが「違警罪」の成立によって強化されると、これが教祖の「御苦労」の要因になっていきました。

 このため、教祖の教えを信奉する人々は「教会」を設立して、宗教活動の認可を受けるための運動を展開し、明治18年には「神道直轄天理教会」の設置に至ります。しかし、公認された社寺に所属する「教会」を設置した場合も、新しい「教会」はそれぞれに地方庁の認可を得る必要がありました。

◎「教会・講社結集、説教所設置許可のときは、当事者より地方庁へ届出せしむる件」(明治16年)

 教会設置のあとも、教祖の御苦労は続くことになるのです。また、「神道直轄六等教会」というのは「神道(本局)」という神道系教派の一つに所属する教会という意味であり、「神道(本局)」が独立の教派としての活動を本格化させると、所属教会である「天理教会」の活動内容が、本体である教派とあまりに食い違うことは、問題視されるようになります。

 このため、明治19年5月29日付で「五ケ条の請書」が提出されました。このことが、表向きに表明される「教義」と実際に説かれる「教理」の二重構造化の出発点になるのです。

 こうしたなか、明治20年正月26日(陽暦2月18日)に、教祖は「現身」をかくされました。


一年祭のふしと教会公認

 教祖が現身をかくされた直後、飯降伊蔵を通して神意を伺うと、次のようなお言葉がありました。

 さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。

 こうして、現身をかくした教祖は「存命」のまま働くことが宣言されます。そして、教祖の姿は見えないだけで、以前と同じように生きて働いてくださるという「存命の理」を前提にして、教祖の教えを世界に広げる活動は継続していきました。

 しかし、姿の見えない教祖を警察などへ連行したり、拘留したりすることはできません。このため、教祖のご苦労を回避するために行われてきた教会公認の活動は、しばらく沈静化することになります。再び教会公認への動きが活発になるのは、明治21年の教祖1年祭以降のことです。




 明治21年3月8日(旧暦正月26日)、教祖の1年祭が執行されました。夜半から準備をした人々は午前5時から「かぐらづとめ」を勤行し、参拝の講元、信者も門内に入れて首尾よく十二下りを済ませます。そして、これから一年祭の祭式に取り掛かろうとしたところに、大神教会所の詰員の一人がやってきました。

 一年祭の執行に、異を唱える声を振り切って年祭を始めます。すると、櫟本警察分署長巡査八名を率いて乗り込んで来て、祭式の中止を命じて参拝の信者を全部門外に追い出し、表門裏門を閉めて巡査を番につけ、その他の巡査が靴のまゝ室内を歩き廻って斎主以下教職一同の住所姓名を手帖に書き留める、という事態になりました。

『稿本中山眞之亮伝』には、このとき分署長が申し渡した言葉が、次のように記載されています。

「本職等は、敢て今日の如き事は致したくもなし。然れども、謂れなく、殊に政府の許可も受けず、ひそかに衆人を集むる如きは、今日の法律の禁ずる処なり。今日の現況を以て貴方を処分せば違警罪なり。違警罪ぐらいは厭わる事なかるべし。故に、処分はせざるが、しかし、このまゝにては不都合千万なり。必ず手続をふんで政府の許可を受くべし。以来一人だも此所へ招く事はなりませぬ。」

「政府の許可」なしには、教祖の一年祭さえ満足に執行できない状況に直面して、再び教会公認への動きが活発化します。教会活動の公認申請は、地方庁へ届出されます。先の公認申請の段階では、現在の天理市の地域は大阪府の管轄でした。しかし、明治20年11月に大阪府から分割された奈良県が設置されています。

 このため、当初は奈良県への出願を検討しますが、すでにその管轄下で教会を設置していた「神道(本局)」のある東京府(当時)で、教会設置と活動公認の申請を行なうことになりました。「神道(本局)」の前身は、政府の機関である「神道事務局」であり、管長の稲葉正邦は明治政府の要職を歴任した人物です。かなり行政側とのつながりを、期待できたのではないでしょうか。

 早速、東京で拠点となる場所を確保し、初代真柱さまをはじめとする人々が上京して、明治21年4月5日(正式には4月7日)「天理教会所設置御願」東京府知事宛に提出します。この申請には、4月11日になって、次のような返答がありました。

「書面願え趣聞届候事 明治廿一年四月十日 東京府知事 男爵 高崎五六」

 こうして、4月10日付で待望の官許を得ることになりました。初代真柱さまは、上京するとき留守役の梅谷四郎兵衛に対して、次のように語ったと伝えられています。

「こうやって教会設置の出願のために東京へ行くけれども、望みが叶って西向いて帰れば結構だが、もし望みを遂げられぬ場合には、再びと西を向いて帰らん決心である。その折は、梅谷お前が第二の人数の準備をして東京へ出るのやで。それでも、もし、未だ駄目な時には第三の人数を拵えて来い。」

 しかし、実際にはわずか数日で申請が認可され、「神道本局」所属「天理教会本部」を設置することができました。人々は歓喜に沸きますが、東京で設置された本部を早々に「ぢば」の地へ移転すべきである、との神意が「おさしづ」を通してくり返し伝えられます。

 たとえば、明治21年7月2日(陰暦5月23日)「本席腹下るに付伺」とされる「おさしづ」では、あらためて教会本部の移転が急き込まれ、これに対して「右に付、教会本部をぢばへ引移りの事を押して願」と伺うと、

 さあ/\談示の理を尋ねる/\。さあ/\談示の理を尋ねるから、一つの理を諭す。世上の気休めの理を、所を変えて一寸理を治めた。世上には心休めの理、ぢばには一寸理を治める。ぢばの理と世界の理とはころっと大きな違い。世界で所を変えて本部々々と言うて、今上も言うて居れども、あちらにも本部と言うて居れど、何にも分からん。ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる。ぢばがありて、世界治まる。さあ/\心定めよ。何かの処一つ所で一寸出さにゃならん。さあ/\一寸難しいであろう。どんな道もある。心胆心澄ます誠の道があれば早
く/\。

との神意が伝えられました。教会本部のあるべき場所は、東京ではなく「ぢば」なのです。「ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる。ぢばがありて、世界治まる」という、極めて強い言葉で教会本部の移転を促された人々は、せっかく取得した官許を失う不安を抱えながらも、神意に従う決意を固めます。

 奈良県への移転の手続きは、予想外にスムーズに進み、7月23日移転届を提出して、11月29日(陰暦10月26日)に、天理教会本部の移転・開設を祝す開筵式が執行されます。このときの盛大な式典の様子は、『稿本中山眞之亮伝』に詳しく記されています。

 教会本部が開設されると、直轄分教会の設置願いが続々と出されます。

明治二十一年十二月五日 諸井国三郎分教会再願の願(山名)
        十一日 郡山天竜講分教会伺(郡山)
明治二十二年一月十五日 大阪真明組分教会設置の伺(芦津)
   同日       大阪明心組より分教会所御許し願(船場)
   同日       神戸兵庫真明講より天理分教会設立の儀御許し願(兵紳)
   同  二月十八日 斯道会の分教会の件に付おさしづ(河原町)
   同  三月 三日 河内国講社中より分教会設置願(中河、高安)
   同 八月二十六日 撫養斎田村に於て支教会設置の願(撫養)

 さらに各地の分教会の開筵式も、それぞれ盛大に挙行されました。明治21年~22年にかけて設置された直属教会とその担任者は、以下の通りです。

 明治二十一年
  郡山  奈良県 平野楢蔵
  山名  静岡県 諸井国三郎
 明治二十二年
  芦津  大阪市 井筒梅治郎
  船場  大阪市 梅谷四郎兵衛
  兵紳  兵庫県 清水与之助
  高安  大阪府 松村吉太郎
  河原町 京都市 深谷源次郎
  撫養  徳島県 土佐卯之助
  東   東京市 上原佐助

 こうして、各地に設置された教会も官許を得て、教祖の教えは急速に広がっていくことになりました。


「おさしづ」の教示と教会制度

 各地で教会設置が続くなか、明治22年3月31日に、郡山分教会所から「郡山分教会所に御神楽御道具を御許しの願」という伺いが為されています。これに対しては、次のような「おさしづ」がありました。

 さあ/\尋ねる処よう聞き取らねば分からん。道の処一つの理、一つの理を、さあ理を下ろしたる処、十分の道も、一寸世界の道を計りたる処、真実日々一つ思う処、よう聞き取れ。めん/\一つ治めにゃならん。十分どちらとも/\同じ事なら、一つの理思う。多くの処道の処、理を下ろす。皆人衆一つ理である。人衆の理を計らねばならん。ぢば一つ始め出しという。それから道から所々から運ぶ処から、一つ理が治まる。人衆の心から悟り、鳴物の理十分理で治まる。道具これまで、神前に道具飾る。十分の理を諭して置く。道具の理皆許す中一つ元一つ人間始め出したる、これだけぢば一つに限るという事をさしづして置く

「かぐらづとめ」の道具は、「ぢば一つに限る」という神意が明確に示され、各地の教会での「つとめ」と「ぢば」を中心にした「かぐらづとめ」の違いが説かれました。「ぢば」の理を明かし、教会本部と各地の教会の順序を明示するとともに、「かぐらづとめ」の理合いについて、極めて明確に諭されています。

 先に紹介した、教会本部の移転・開設についても、つねに「おさしづ」によって基本的な方向性が示されていました。この時期の教会史を考察する場合には、その時々の「おさしづ」がつねに重要な意味を持っています。「おさしづ」に言及することなしに、初期の教会制度の成立について語ることはできません。




「かぐらづとめ」については、現在の山名大教会からも明治22年4月24日(陰暦3月25日)に「遠州山名郡分教会所に於て、御神楽面を開筵式に付御許し伺」という願が出されています。この伺いに対しては、次のような「おさしづ」がありました。

 さあ/\尋ねる処、尋ねて一つ心の理があれば、尋ね一つさしづしよう。どういう事であろう。さあ/\止まる実際尋ねるまで一つ理、つとめ一条の理、多くの中、幾重心得もだん/\始め、鳴物一切道具許そう。第一人間一つ始め、人衆一つの理、だん/\話一つ/\、一時尋ねるまでの理であろう。面はぢば限り。このお話して置こう。

 九つの鳴物や他の道具の使用は認められていますが、「面はぢば限り」として明確な神意が示され、「かぐらづとめ」が勤習される「ぢば/教会本部」を中心に、各地の教会が活動する教会制度の基本的なかたちが明示されています。

 こうして教会公認後は、教祖の御苦労に直結した迫害や干渉は少なくなり、行政や法律の規制を受けなくなった天理教会は、しばしば「燎原に火を放つ」と表現されるように、急速に拡大していくことになりました。

 よく引き合いに出される事例ですが、明治21年教祖1年祭の際には、櫟本警察分署長と巡査八名によって、集まった人々は解散させられました。その一方で、明治24年に3月6・7・8日(陰暦正月26・27・28日)の三日間に亙って執行された教祖5年祭では、十数名の警官が出張して、参集した人々の保護・警備に当たりました。

 参拝した信徒に支給された弁当だけでも3万5千を数えていますので、警官の仕事はかなり忙しかったのではないでしょうか。公認と未公認では、これほど状況が違うのです。警官の対応は、教祖1年祭と5年祭では180度変わりました。当時の社会の様子が、よく分かるエピソードではないでしょうか。「官許」があれば、取り締まる理由はないのです。

 しかし、この宗教活動の認可は、「神道(本局)」に所属する「天理教会」への公認でした。前回紹介した、「五ケ条の請書(明治19年5月29日付)」に明記されていたように、「神道(本局)」の教規には、「天理王命」という神名はありません。また、「元はじまりの話」にもとづく教説や「つとめ」を中心とする祭儀は、天理教会の母体である教派(神道本局)の教説や儀式とは、本質的に相容れないものでした。

 このため、表向きに表明される「教義」と、実際に説かれる「教理」の二重構造化の問題は、時代が下るとともにより深刻化していくことになるのです。「爆発的」と形容しても過言ではない勢いで、急速に拡大した天理教会の布教活動は、次第に世間の衆目を集めて、各地の教会の活動は社会問題化していきます。

 そうしたなかで、明治29年「内務省訓令甲第12号/秘密訓令」が出されて、天理教会の活動が再び規制されるなかで、「一派独立」への動きが加速化していくことになるのです。

 この講義の目的の一つは、受講生の皆さんに「天理教会設置」「教会公認/教会本部開設」、さらには「天理教一派独立」の違いをしっかりと認識してもらうことです。もう、明治18年の「神道天理教会」の設置と、明治21年の「天理教会本部」の開設(教会公認)の違いは理解できたでしょうか。

 次の段階は、「一派独立」です。なぜ、「天理教会」「神道(本局)」から独立して、「天理教」という独立教派を設立することになるのか。さらには、その後の教会史/教理史の展開はどのようなものになるのでしょうか。まず、この時代に宗教団体が「一派独立」することの意味から説明しますので、後半の講義でしっかり学んでください。

 ただし・・・

◎次回は少し寄り道をして、秘密訓令から一派独立への歴史を辿る前に、別席制度の確立について紹介します。「さづけ」の理の意義についても、詳しく説明する予定です。

 授業の習熟度を確認したい人は、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。

https://forms.gle/u784sdBfMCMs6hzk8


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2021年10月20日水曜日

天理教史特殊講義2/第6回

 
「講」から「教会」へ


 前回の講義では、教会設立・公認運動の背景となる明治政府の宗教政策の変遷と、教祖のご苦労に関わる違警罪などの法整備について確認しました。これらを踏まえて、今回の講義では『稿本天理教教祖伝』をもとに、天理教会設置運動の足跡を辿っていきます。

 まず、「教会」の原型となる「講」について、簡単に説明します。


「講」の形成

「講」は、もともと仏典の講義や講読を行なう僧侶の集まりを意味する言葉であった、と言われています。それが次第に、地域社会において宗教行事を行なう集団やその行事・会合を指すようになり、さらに相互扶助的な団体や会合などを意味するようになりました。

 中世に起源をもつ民俗信仰的な講に加えて、念仏講/報恩講(浄土系)法華講/題目講(日蓮系)などの同信の人々の集まりも講集団を形成していきます。また、各地の霊場への参詣を促す参詣講が形成されるようになり、近世には伊勢神宮へ参詣する伊勢講や富士山を霊場とする富士講などの参詣組織が各地に形成されました。さらには、伊勢の御師に代表されるような、寺社への参詣を促す人々の活動も広がります。

 とくに、平和な時代が長く続いて人々が地域社会に定着化した江戸時代には、宗教的な講組織ばかりでなく、経済的な互助制度や職業集団の協同組合のような「講」も発展しました。江戸時代の後半には、固定化された寺檀制度とは別に、庶民の宗教活動として多彩な講が各地で発展します。

*興味のある人は、桜井徳太郎『講集団の研究』などの研究成果を参照してください。

 前回の講義で確認したように、明治政府は宗教家の国家資格ともいうべき「教導職」を制度化し、大教院を中心とした国民教化活動を展開する一方で「教会大意」を発布し、江戸時代の宗教的な講を「教会」として組織化して、宗教活動の認可制度に組み入れていくことになりました。

 江戸時代の参詣講のなかで、もっとも大きな組織は伊勢神宮へ参詣する伊勢講です。この組織は、のちに神道系教派の「神宮教」として組織化され、さらに民法の制定後は、財団法人化して「神宮奉斎会」となります。同じように富士山や御嶽山、出雲大社への参詣講も教派神道の独立教派を形成していきました。

 ちなみに、参詣講ないしは代参講とは、有名な神社や仏閣へ参詣者を定期的に送り出すために組織された地域的な結社のことです。遠方から伊勢神宮や富士山へ参詣するためには、時間も巨額の費用もかかります。しかし、20件や30件の講をつくって費用を出し合えば、毎年代表者を参詣させることができますし、順番が来れば自分も一度は、仕事や生活を離れて参詣の旅に出ることができたのです。

 明治6年、キリシタン禁制の高札を撤去した政府は、とくにキリスト教の影響拡大を警戒して、日本の宗教活動の活性化を促します。このため、民間の「講」を「教会」として組織化し、積極的に活用しようとしたのです。

 しかし、「教導職」を設置する以上は、宗教者として認可する人物にはそれなりの教養と品位が求められます。また、前回の講義で確認したように、宗教活動の認可の前提は「三条の教則」に象徴される国家の方針に従うことでした。明治7年に、教祖が奈良の「中教院」に呼び出されるのは、ちょうどこの時期のことです。

中教院:国民教化のために、神仏合同の機関として東京に設置された「大教院」の分院として、各府県に「中教院」、各地に「小教院」が置かれた。大教院は国民教化の基本方針や教科書等を制定し、各府県の「中教院」では教導職の養成(講習や試験)が行なわれた。

『稿本天理教教祖伝』は、明治11年頃の様子を次のように伝えています。

「講を結べ。」と、お急込み頂いたのは、文久、元治の頃に始まり、早くもその萌しはあったが、明治十一年四月頃には、秀司を講元とする真明講が結ばれて居た。小さいながらも、親神のお急込み通り、人々の喜びを一つに結ぶ講が出来て居たのである。世話人は、仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衞、中尾休治郎で、講中の人々は、近在一帯の村々に及んだ。(142~143頁)

 教祖を「月日のやしろ」と慕う人々は、幕末の頃には「講」を組織化するようになります。それが明治10年代には、ある程度まとまった組織になっていました。さらには、教祖が「つとめ」を急き込み、多くの人々が「ぢば」へ参詣する状況のなかで、活動の認可を受けるために「教会」を設置する機運が高まります。

 ちょうどその頃、乙木村の山本吉次郎から、同村山中忠三郎の伝手を得て、金剛山地福寺へ願い出ては、との話があります。これに対して、教祖は「そんな事すれば、親神は退く」厳しく反対されます。しかし、長男の秀司先生は教祖や周囲の人々のことを思い、わが身はどうなってもとの覚悟で仏式教会の設立を進めました。




 このとき、吉野へ向かう途上で通ったとされる芋が峠の古道(上写真)を歩いたことがあります。驚くほど傾斜のきつい山道であり、足が不自由であった秀司先生にとっては、精神的にも肉体的にも、極めて困難な道筋であったことを実感しました。



 とはいえ、明治13年9月22日(陰暦8月18日)には、転輪王講社の開筵式が行われます。この仏式教会(仏教宗派ないし寺院所属の教会)は、教祖の思召に合わないばかりでなく、設置認可を可能にする教会組織とは言えないものでした。このため、明治15年には廃止されています。

 しかし、開筵式を契機として講社の名簿が整頓されます。『稿本天理教教祖伝』によれば、「名簿は第一号から第十七号迄あって、中、第一号から第五号迄は大和国、その人数は五百八十四名、第六号から第十七号迄は河内国、大阪、その人数は八百五十八名、しめて千四百四十二名である。」(150頁)とされています。




 この名簿によって、当時の教勢の規模をかなり具体的に知ることができます。「大和国天輪王講社名簿」「河内国天輪王講社名簿」が現存しており、ほかに明治14年と明治15年の名簿が残されています。この時期には、中山家の「真明講」を中心にして、各地の講を結ぶ教会組織のあり方が、すでに構想されていたことを伺い知ることができます。

*詳しくは、高野友治「天輪王講社名簿調査報告書 上・下」(『復元』5・11号)を参照してください。

 前回・前々回の講義で確認したように、この時期には教祖の教えを体系的に理解した人々が各地で活発な布教活動を展開します。その一方で、教会の組織化を求める認可制度が確立し、違警罪による取り締まりの強化が現実的なものになっていました。

 こうしたなかで、各地の講の組織化教会の設置認可を求める動きがさらに活発化していきます。『稿本天理教教祖伝』には、次のような記載があります。

 明治十四年頃には、講の数は、二十有余を数えるようになった。即ち、大和国の天元、誠心、積善、心実、心勇、河内国の天徳、栄続、真恵、誠神、敬神、神楽、天神(後に守誠)、平真、大阪の真心、天恵、真明、明心、堺の真実、朝日、神世、京都の明誠等である。
 又、この年十二月には、大阪明心組の梅谷四郎兵衞が、真心組とも話し合った上、大阪阿弥陀池の和光寺へ、初めて教会公認の手続書を提出した。しかし、何等の返答も無かった。(159頁)

 この時期には、講の名称は以前の講義で紹介した「御神前名記帳」に出てくる地域名ではなく、かなり抽象的で教理と関連する名称に変わっています。講社に関わる人々の関係性は「地縁」から「理縁」に変化し、同じ地域に住む人々の集まりではなく、同じ教えを信じる人々の共同体が、形成されるようになったのではないでしょうか。

 『稿本天理教教祖伝』には、明治15年の講社名簿について、次のような記載があります。

 神清組(教興寺村)、天神組(恩知村)、神恵組(法善寺村)、神楽組(老原村)、敬神組(刑部村)、清心組(国分村)、神徳組(飛鳥村)、榊組(太田村)、一心組(西浦村)、永神組(梅谷村)、平真組(平野郷)、真実組(大和国法貴寺村、海知村、蔵堂村、檜垣村)、天恵組(大阪)、真明組(大阪)、明心組(大阪)、信心組(大阪)、真実組(堺)、心勇組(大和倉橋村出屋舗方講中)、誠心組(同国佐保庄村講中)、信心組(同国忍坂村講中)、神恵組(堺桜之町講中)

 以上、大和国五、河内国十、大阪四、堺二の講社が結ばれて居り、その他この名簿には見えないが、この以前からあったものに、天元、積善、天徳、栄続、朝日、神世、明誠等がある。当時、講元周旋の人々は、山城、伊賀、伊勢、摂津、播磨、近江の国々にもあり、信者の分布は更に遠く、遠江、東京、四国辺りにまで及んだ。(250頁)

 この時期には、かなり広い範囲で講社を中心にした布教活動が行われています。当然のことですが、このような状況を背景として、教祖の御苦労はさらに頻繁になっていきました。


「天理教会」設立の歩み

 こうして、各地の講社を一つにまとめて「教会」を設置し、活動の認可を受けるための活動が活発になっていきます。『稿本天理教教祖伝』の記述をもとに、この時期の教会設置運動を整理すると、次のようにまとめることができるでしょう。



 明治17年頃になると、教祖の身辺状況がより厳しくなるなかで、各地で教会設置や宗教活動の認可を申請する動きが盛んになります。また、その一方で京都の明誠社のように、独自の活動をはじめるケースも出てきます。

 こうしたなか、「大日本天輪教会」の名称で全国的な教会を組織化する運動がはじまります。当時、信者達が定宿にして居た村田長平方に「教会創立事務所」の看板をかけるまでに到りました。しかし、信仰よりも組織化を優先する方向性は神意に沿うものではなく、初代真柱さまを中心とする教会設置の重要性が、教祖より示されます。

 少し長くなりますが、このあたりの消息を『稿本天理教教祖伝』から引用しておきましょう。

 竹内等の計画は、次第に全国的な教会設置運動となり、明治十八年三月七日(陰暦正月二十一日)には、教会創立事務所で、眞之亮、藤村成勝、清水与之助、泉田藤吉、竹内未誉至、森田清蔵、山本利三郎、北田嘉一郎、井筒梅治郎等が集まって会議を開いた。その席上、藤村等は、会長幹事の選出に投票を用いる事の可否、同じく月給制度を採用する事の可否等を提案した。
 議論沸騰して容易に決せず、剰えこの席上、井筒は激しい腹痛を起して倒れて了った。そこで、教祖に伺うた処、「さあ/\今なるしんばしらはほそいものやで、なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者になるやわからんで。」と、仰せられた。この一言で、皆はハッと目が覚めた。竹内や藤村などと相談して居たのでは、とても思召に添い難いと気付いたのである。(276~277頁)

 こうして、初代真柱さまを「芯」とする教会設置運動が本格化し、明治18年4月「天理教会結収御願」大阪府知事宛に提出しますが、これは却下されました。大阪府知事宛になっているのは、現在の天理市の地域は、当時大阪府の管轄だったからです。




 その一方で、この年の3月から4月にかけて、大神教会の添書を得て「神道(本局)」の管長宛に、初代真柱さま以下10名の教導職補命の手続きが行なわれ、5月20日付けで教導職の補命「神道直轄六等教会」の設置が認められています。

 ここで重要なのは、このとき補命された「教導職」は、すでに政府の認定資格ではなくなっていたということです。明治17年に、神道及び仏教の教導職はすべて廃止になり、神道系の教派と仏教系の宗派は一派独立し、それぞれ各教派や宗派を代表する管長のもとで国民の指導にあたることになります。

 政府は、依然として宗教家に国民を教導する役割を期待しましたが、各教派や宗派の活動の自由を認めることになったのです。このため、神道系の教派をまとめていた国の機関である「神道事務局」は解散されました。

 しかし、「神道事務局」には未だ一派独立できない、さまざまな教会が残されており、明治18年稲葉正邦管長として、新たに独立の教派を設立することになります。この教派として設立された「神道事務局」は、翌明治19年「神道(本局)」改組されました。「神道(本局)」と括弧を付けているのは、正式名称を「神道」としたからです・・・のちに「神道大教」と改称。

 教導職の廃止とともに、「神道事務局」からは所属していた神道系教派のほとんどが独立し、教派として発足した当初の「神道事務局/神道本局」には、一派独立できない教会だけが残されました。このため、活動の規模を広げるために未公認の宗教活動を積極的に取り込んでいきます。このときに、金光教会(金光教)神理教会(神理教)などともに、所属教会の一つとして設立されたのが「天理教会」です。

 初代真柱さま以下十名の人々が補命された教導職は、国家資格の教導職ではなくて、教派として独立した「神道(本局)」の教師の資格でした。また、しばしば誤解されるのですが、「神道直轄六等教会」というのは「神道(本局)」という神道系教派に所属する教会という意味であり、ここでの「神道」「キリスト教」「仏教」のような、宗教のカテゴリーの名称ではありません。

 明治18年に「神道天理教会」を設立した段階では、「神道事務局」はまだ、多様な神道系教派を管理・監督する公的機関の性質を色濃く残していました。管長となった稲葉正邦は、その経歴から考えても宗教家というよりは、むしろ官僚的な人物でしたし、もともと政府の役人の立場で神道系の教派を管理していた人です。しかし、明治19年に「神道事務局」は、完全な独立教派である「神道(本局)」に改組されます。

「神道(本局)」が独立の教派としての活動を本格化させると、所属教会の活動内容が本体である教派とあまりに食い違うことは、しだいに問題視されるようになりました。

 この段階になって、明治19年5月28日神道管長・稲葉正邦の代理として権中教正・古川豊彭、随行として権中教正・内海正雄大神教会会長・小島盛可の三名が取調べのために、中山家へやって来るのです。このとき、天理教会からは神道本局に五ケ条の請書(明治19年5月29日付)が提出されました。『稿本天理教教祖伝』には、以下の本文が記載されています。


註五:

    御請書
 一 奉教主神は神道教規に依るべき事
 一 創世の説は記紀の二典に依るべき事
 一 人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事
 一 神命に托して医薬を妨ぐべからざる事
 一 教職は中山新治郎の見込を以て神道管長へ具申すべき事
   但し地方庁の認可を得るの間は大神教会に属すべき事
  右の条々堅く可相守旨御申渡に相成奉畏候万一違背仕候節は如何様御
   仰付候共不苦仍て教導職世話掛連署を以て御請書如此御座候也
                        中山新治郎
                        飯降伊蔵
                        桝井伊三郎
                        山本利三郎
                        辻忠作
                        高井直吉
                        鴻田忠三郎
 神道管長代理 権中教正  古川豊彭殿

 まず最初に、「奉教主神は神道教規に依るべき事」として、信仰対象となる神は古事記日本書記に記載のある日本古来の神とする、という約束をします。そうしないと、天理教会の母体である教派(神道本局)とは、信仰や教えの内容が食い違うことになるからです。しかし、神道教規には「天理王命」という神名はありませんでした。とはいえ、「天理王命」の神名を使用しなければ「つとめ」はできません。

 つまり、表向きは神道教規にしたがう約束をすることになるのです。また、「創世の説は記紀の二典に依るべき事」「人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事」といった約束にしたがえば、「こふき」に説かれる「元はじまりの話」や基本的な教祖の教えは、そのまま伝えることが出来なくなるでしょう。

 このあたりから、表向きに表明される「教義」と実際に説かれる「教理」二重構造化がはじまります。

 とはいえ、教会を設立しただけでは、活動の自由は得られません。前回の講義で紹介したように、明治16年には「教会・講社結集、説教所設置許可のときは、当事者より地方庁へ届出せしむる件」が定められて、新たに教会や講社などの宗教組織を結成した場合には、たとえそれが認可された教派や宗派に所属する教会・講社であったとしても、個々に地方庁に出願して認可を受けることが義務化されました。

 このため、明治18年に「神道(本局)」所属の「天理教会」が設立されても、教祖の御苦労は続くことになるのです。そして、明治20年正月26日(陽暦2月18日)に、教祖は現身をおかくしになりました。

◎次回は、教祖が現身をおかくしになったあとの教会公認活動と教会本部の設置、各地の教会の設立について『稿本中山眞之亮伝』を中心に紹介します。

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2021年10月14日木曜日

天理教史特殊講義2/第5回

 
教祖の「ご苦労」とその時代背景


 明治政府の宗教政策の変遷

 これまでの講義で確認してきたように、明治10年代になって教理史/教会史のもとになる文献史料は、急激に増えることになりました。この時期の文献史料について、①対外的表明文書、②こふき本、③布教文書の三つに分けて説明しましたが、これらは互いに関連し合いながら相乗効果を生んでいたことを確認しました。

 その背景の一つは、この時期に教祖を通して伝えられた親神の教えが急速に広がりつつあったことです。しかし、その一方で明治維新以来の政府の宗教政策が二転三転しながら、この時期に基本的な方向性を確立しつつあったことも重要です。

 教祖のご苦労がこの時期に頻繁になり、教祖を中心とする人々の活動が取り締まりの対象となる理由を知るためには、明治10年代の法制度を理解する必要があります。また、ご苦労を回避するために、教会設置・公認運動が盛んになる理由を理解するためには、明治維新以来の政府の宗教政策の変遷を知る必要があります。

 ある意味では、ちょうど積極的な布教活動が取り締まりの対象となり、教会設置認可の必要性に迫られるようになった状況のなかで、教祖は基本的な教説をくり返して仕込み、積極的に教えを世界に伝えていくかたちをとったのです。時代の空気を読むときは、普通は当たり障りのないように行動しますが、教祖はむしろ反対の姿勢をとったとも言えるでしょう。

 複雑な経過をたどった、当時の宗教政策の変遷を簡単に説明するのは容易ではありません。しかし、当時の状況を考えるためには必要な知識ですので、教会設置・公認の歴史を辿る前に、一度寄り道をして整理しておきましょう。




 明治維新によって、250年も続いてきた徳川幕藩体制を一新した明治政府は、「王政復古」を掲げて、本来は家臣であるべき「権門」(藤原氏や平氏、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府など)が政治の実権を握っていた歴史を否定し、「天皇親政」の中央集権的な国家の樹立を目指します。

 そして、「祭政一致」の理念のもとに宗教的権威(祭)政治的権威(政)を一つにした、ある種の宗教国家の樹立を目指しました。これには、天皇の存在を神聖視することによって、その政治的権威を神格化する狙いがありました。このために、初期の明治政府は太政官(政治の中枢機関)の上に神祇官(祭事の執行機関)を置き、宗教的「まつりごと(祭)」政治的「まつりごと(政)」に優先させる古代の王政に倣った制度をつくります。




 神祇官の下には「宣教使」が置かれて、各地で宣教掛が新しい政治体制とともに「神道」の普及につとめました。しかし、神道国教化を推進するために発布した「神仏分離令」によって、各地で「廃仏毀釈」が行なわれると同時にこれに反発する暴動が起きるなど、社会が不安定になってきます。また、宣教使の人員不足各地の神社の不備などの問題点が露呈し、新政府は方針を転換することになりました。

「神仏分離」:明治政府が布告した祭政一致、神祇官再興に伴って生じた、神道と仏教を分離させる政策。明治維新の政治的理想であった王政復古・祭政一致を具体化しようとした。

「廃仏毀釈」:明治初年、政府の神道国教化政策に基づいて行なわれた、仏教の抑圧・排斥運動。慶応四年(1868)に神仏分離令が出されると、仏堂・仏像・仏具・経文などの破壊・焼却が各地で行なわれた。

 シンプルに言うと、神道を国教化することを諦めて、仏教や儒教などの外来の宗教も含めた、国内の宗教活動を政府が一元的に管理する体制に移行することになったのです。

 徳川幕藩体制のもとでは、日本各地の寺院は幕府の下部組織に組み込まれ、人々の戸籍や生活を管理していました。このため形式的には、江戸時代には仏教が日本の国教のような状況になっていました。

 新政府は、当初は神仏分離令によって仏教を排除しましたが、結局、全国に10万か所以上あったとされる各地の寺院とその住職たちを政策に組み込む方向に転換しました。敢えて言うなら、神仏分離から神仏合同へ方針が転換されたのです。この新しい教化体制明治初期の神道国教化政策と区別し、両者の連続性よりも断続性を強調する見方が、近年では主流になりつつあります。

 明治5年神祇官と宣教使は廃止されて、新たに教部省と教導職が設置され、東京の増上寺にすべての宗教活動を統括する機関として「大教院」が設置され、神道や仏教や儒教といった垣根を越えて、「三条の教則」「二十八兼題」といった国家の方針を国民に教化する政策を進めます。

 このとき設けられた「教導職」は、「神仏合同」の宗教家/聖職者の国家資格であり、医師や教員の免許と同じような資格でした。医師免許や教員免許、運転免許などが制度化されると、免許を持たない人が医療行為をしたり、学校の教員となったり、自動車を運転したりすることは許されません。こうして、一時期正式な宗教家は、この教導職に限定されることになりました。

 当時の具体的な状況は、神社の神官よりも仏教の事例を見る方がよく分かります。たとえば、教導職の制度に従って仏教諸宗派では、教導職試補以上でなければ僧侶として公認されない制度が法制化されます。

◎明治九年十二月十六日太政官布告一五六号:「僧侶と公認する者は諸宗教道職試補以上に限り候条、此旨布告候事」

 つまり、教導職でなければ、正式な僧侶としては活動できなかったのです。そして、教導職の資格を得るためには、専門の教育課程を受講して、資格試験に合格する必要がありました。しかし、この教育課程で学ぶ内容は、仏教とはかけ離れた内容のものであり、僧侶たちは不満を募らせていきます。

 また、教導職の僧侶でなければ、住職になることは不可能でした。

◎明治七年七月十五日教部省選三十一号:「自今教導職試補以上に無之向は寺院住職不相成候、此旨相達候事」

 江戸時代に庶民社会の中枢を担った仏教の僧侶たちでさえ、かなり宗教活動を制限されていたのです。

 しかし、明治4年から6年にかけて、アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された岩倉使節団が帰国すると状況が一変します。キリスト教の活動の自由と信教の自由を重視する外国からの圧力もあって、明治6年キリシタン禁制の高札を撤廃(太政官布告第68号)するとともに、明治政府は信教自由を認める方向に転換していきました。

 また、教導職の名目で神道色の強い宗教活動を強要されていた仏教各派からの反発信教自由の運動の高まりもあって、政府は明治8年5月「大教院」を解散し、仏教の各宗派や神道系の教派の活動の独自性を認めることになります。さらには、明治8年11月「信教自由の口達」を発して規制を緩めると、各宗派や教派のなかで宗教団体として独立(一派独立)する機運が高まりました。

 そして、明治17年になって教導職が完全に廃止されると、仏教各宗派や神道各教派は独立の宗教団体となり、各教団の統括者である「管長」を中心に、国民教化の活動を行なうことになります。しかし、管長の任命権は政府にあり、各宗教団体の活動の認可制度は、終戦によって日本社会の枠組みが根本的に変わるまで維持されることになりました。つまり、認可の条件を満たす宗教活動だけが認められる、条件つきの信教自由の制度に落ち着いたのです。

 簡単に整理すると、明治政府の宗教政策は、

①神道国教化政策(宣教使)/宗教国家の樹立
👇
②宗教家の国家資格化(教導職)/宗教活動の一元的管理
👇
③各宗教派「管長」の指示による国民教化/宗教活動の認可制度

というように、二転三転して最終的に宗教活動の認可制度が成立しました。

 この①~③の変遷の時期は、この講義で確認してきた教祖の「ひながた」の後半部であり、教祖を通して伝えられた親神の教えを広めるために、各地で布教活動が活性化していく時期と重なっています。こうした時代背景のもとで、未認可の宗教活動である教祖の教えを広げる人々の活動は、しばしば取り締まりの対象となっていくのです。

 それでは、この時期の宗教活動の公認(官許)の条件は、どのようなものだったのでしょうか。


官許の条件

 明治以降の宗教政策の基本的な前提は、国家の方針にもとづく国民の教化でした。その根底には、天皇の政治的権威を神格化し、中央集権の国家の枠組みを確立する意図がありました。この理念的な条件は、明治3年(1870)に明治天皇の名で出された「大教宣布詔(たいきょうせんぷのみことのり)」に闡明され、明治5年に制定された「三条教則」に具体的に示されました。




「第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事」
「第二条 天理人道ヲ明ニスベキ事」
「第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」

という基本方針が定められ、この教則を人々に伝えることが教導職の役割になります。さらには、三条の教則は「富国強兵」「文明開化」といった、皆さんもよく知るスローガンを含む28のテーマ(二十八兼題)に具体化され、教導職が社会教育に使う教科書も整備されました。

 その後、教導職が廃止されて信教の自由が認められると教科書はなくなりましたが、少なくとも昭和20年の終戦までは、この三条の教則を順守することが、宗教活動の認可を得るための大前提になります・・・理念上の条件

 また、当時の教祖周辺の人々の活動と深く関わる出来事は、教導職が設けられて神仏合同の国民教化活動が進められるなかで、明治6年「教会大意」が出されたことです。これによって、江戸時代には正規の「宗門」である仏教各派のように、幕藩体制の下部組織に組み込まれていなかった民間の宗教活動も、認可制度の枠内に組み込まれて行くことになります。

是迄於各地方結社候 黒住 吐普加美 富士 御嶽 不動 観音 念仏 題目 等神仏諸講中其方法検査之上各一派之教会二可相立候条右教会大意二照準シ

 ここで名前の挙がっている「黒住講(黒住教)」「吐普加美講(禊教)」、「富士講(扶桑教・実行教)」「御嶽講(御嶽教)」などは、のちに教派神道として組織化される民間の信仰活動です。また、「不動講」「観音講」「念仏講」などは、各地の民衆が自発的に行っていた宗教活動でした。これらの多くは、のちに仏式教会として仏教各宗派に吸収されて行きます。日蓮系の在家団体である「題目(南無妙法蓮華経)講」は、独自の組織化を遂げて現在の日蓮系の宗教団体(創価学会、立正佼成会、霊友会など)の源流になっていきます。

 これによって、民衆の宗教活動にも教導職の制度化とともに、活動を「教会」として組織化することが求められ、さらに「当省へ伺出」「許可ヲ受」けることが要請されたのです。このため、これらの講組織と同じように、この時代に布教活動を活発化した教祖の周囲の人々には、「教会」を設置して活動の「認可」を受けることが求められるようになりました・・・事実上の条件


教会設置と地方庁認可

 さらに、明治14年には「教院・教会所・説教所等にて葬儀執行、衆庶参拝のこと禁制の件」が法制化され、「教会」の役割は国民教化であることがより強調されていきます。宗教団体の役割は、葬儀や参詣などではなく国民の道徳教育だとされたのです。こうして、教会の組織化と認可のハードルは、一段と高くなっていきました。明治17年に、教導職制度は廃止されますが、その一方で住職その他、布教伝道の前線に立つ者は、相当の「徳操学識」のあることが望ましい、とされるようになります。

 こうした政府の要求が、のちに天理教が一派独立する際に、教育機関を設置したり教義の整備が求められる理由の一つになります。また、明治15年には「神社所属の講社の結集は、内務省へ稟伺(りんじ)の件」が出され、正式な宗派や教派に所属する神社や寺院に所属する「教会」も「内務省」への届出が必要になります。



 さらに、明治16年には「教会・講社結集、説教所設置許可のときは、当事者より地方庁へ届出せしむる件」が定められて、新たに教会や講社などの宗教組織を結成した場合には、たとえそれが認可された教派や宗派に所属する組織であったとしても、個々に地方庁に届出をして、認可を受けることになります。

 この「地方庁への出願と認可の制度化」は、天理教の歴史と深く関わりますので、よく覚えておいてください。初代真柱さまを中心とした人々は、明治18年「神道(本局)」という神道系の教派の一つに所属する「教会(天理教会)」を組織しますが、この法律があったために教会の設置だけでは活動の自由を得ることはできず、明治21年に認可を得るまでは自由な活動を制限されることになりました・・・詳しいことは、次回の講義で説明します。


違警罪と教祖のご苦労

 ここで紹介してきた、政府による宗教活動の認可の制度化教会大意による講の組織化地方庁への出願の義務化、といった宗教政策を教祖のご苦労に直結させたのが、「違警罪」の成立です。

 違警罪は、旧刑法(明治一三年太政官布告三六号)に規定した拘留、科料にあたる軽い罪のことです。現在の軽犯罪にあたります。

  当初は、違警罪を管轄する治安裁判所を設ける予定でしたが、違警罪即決例(明治18年・太政官布告三一号)により、正式な裁判を経ないで警察署長が、即決処分によって処罰することが認められるようになりました。

 このことが、とくに明治18年以降に、教祖のご苦労が頻繁にくり返されたことの理由です。




 もともとは、人口が増大しつつあった東京や大阪などの大都市において、さまざまな迷惑行為を取り締まるための法規が定められたことが始まりです。明治5年「違式詿違条例(いしきかいい じょうれい)」が東京府の布達として出されると、これが各地に広がりました。基本的には、不衛生な習慣マナー違反を取り締まるものであり、刑事罰に処すほどではない迷惑行為を禁ずるものです。




 こうした禁止条項が、自由民権運動などの政治活動の取り締まり未公認の宗教活動の規制にまで広げられていきました。

 基本的には迷惑行為を取り締まるための法令でしたが、官許を得ていない私設の社寺の禁止結社・集会の制限医療行為の制限、といった違警罪の禁止事項が適用されて、教祖のご苦労の直接的な理由になっていきます。




 さらには、先にも記したように、明治18年に即決例が制定されると、裁判を行なわずに警察署長が独断で即決処分を下すことが可能になりました。そうすると、はっきりした罪状がなくても教祖が警察へ連れていかれる状況になります。

 こうした状況を打破するためには、正式な「教会」組織をつくり、その設置申請を地方庁(現在の天理市の地域は、当時の大阪府の一部)に届出し、活動の認可を得る必要がありました。だから、明治14年頃から教祖のご苦労が頻繁になり、警察などに提出される手続書が増えると同時に、教会設置及び活動認可を受けるための申請書類が多くつくられるようになるのです。

 そして、あたかもこうした時代状況に合わせるように、教祖は「こふき」を人々に仕込み、親神の教えを広く世界に伝えられたのでした。

◎次回以降は、天理教会の設置運動と認可までのプロセスについて、『稿本天理教教祖伝』と『稿本中山眞之亮伝』をもとに辿っていきます。

 この授業は、オンデマンド形式です。このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。


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2021年10月7日木曜日

天理教史特殊講義2 第4回


「こふき」本の成立とその時代


*第1回からの授業をブログに順次公開しています。「ホーム」から閲覧できますので、試験等の準備に役立ててください。


明治14年頃の基本教理

 教祖の啓示/親神の教えに触れた人々は、そのメッセージをどのように理解し、他者に伝え、世界に発信してきたのでしょうか。

 最初に確認しておきますが、この授業の主題は、こうした人々の営みの歴史的経緯をたどり、明治期から昭和期にいたる政府の宗教政策社会の動向を意識しながら、天理教の教会史を確認していくことです。

 前回までの講義で確認したように、この作業のために不可欠な文献史料は、教祖の「ひながた」の期間(1838~1887)の晩年になって、急速に増えてきます。その理由については、あらためて説明しませんが、前回は明治14年のご苦労の際に提出された手続書を事例として紹介しました。

*さらに確認が必要な人は、前回・前々回のブログを再読してください。

 警察署等に提出された手続書は、正式な文書であり、信頼できる文献史料です。この手続書のひとつのなかで、記載者である山澤良治郎が教祖から聞いた教えを書き記していました。簡潔にまとめられていますが、教祖から直接に教えを受けた人々が、その内容をどのように理解していたのかを知るうえで、極めて貴重な文献になっています。

 その概要は、次のようなものでした。




 まず、「月日のやしろ」である教祖によって、この世界と生命の根本的な真実が明かされたこと。さらには、「かしもの・かりもの」「十全の守護」、「八つのほこり」「かんろだい」が据えられる世界の実現というように、教祖を通して伝えられた教えの概要がまとめられています。

 警察の取り調べに対してまとめられた文書とは思えないほど、きちんと整理された説明になっています。普段から体系的に教えを理解をしていなければ、このような書類に組織立てた教理をまとめて記すことはできません。

 この手続書が提出された明治14年頃には、少なくとも教祖の身近な人々には、教祖を通して伝えられた啓示/親神の教えの内容が体系的に理解されており、それを他者に伝えるかたちが出来ていたことが分かります。

「原初天理教に於ける表明文書」には、上記の手続書に加えて、もう一つ明治14年10月8日付の手続書が掲載されています。こちらの文献には、十全の守護の説き分けがより詳しく記されています。


こふき本の成立

 さらには、「神の最初の由来」「神の古記」という2種類の文献が掲載されています。この二つの文書は、大阪明心組(船場大教会)の梅谷四郎兵衞が阿弥陀池の和光寺教会公認の願い出をした際に、提出された文書を諸井氏が書写したものです。






「神の最初の由来」には、立教の出来事を中心にした教祖の履歴(つまり、シンプルな教祖伝)がまとめられています。続く「神の古記」には、「元はじまりの話」を中心にした教祖の啓示/親神の教えの概略が詳しくまとめられています。これらは、教会設置の請願書に添付された書類ですが、内容はこの頃に教祖が身近な人たちに集中的に説いた教えをまとめた「こふき本」と同じものです・・・②

 明治十三年から十四年頃、教祖は身近な人々にまとまった教理を何度もくり返して話して聞かせました。これが今日、「こふき話」と称されるものです。この教理の話しは、教祖に代わって親神の教えを取り次ぐ「取次」ないし「取次人」を養成し、仕込むためのものであり、教祖は何度もくり返して同じ話をされたようです。

 また、ちょうど同じ頃に教祖は、側近の人々に「こふきを作れ」と仰せられました。このため人々は、それぞれに教祖から聞いたお話を書きまとめて提出します。このことは、当時書きとめられた写本の一つに、次のような記述があることからも明らかです。

「にち/\にをはなしありたその事を くハしくふでにしゆるするなり」(和歌体十四年山澤本)

 こうして書きとめられた写本が、「こうき話写本」とか「こふき本」と呼ばれるものです。

 最も古いものでは、明治14年に書き記された「十四年本」から、教祖が現身をかくされる明治20年まで、かなり多くの写本が伝存しています。明治14年の写本には、「おふでさき」と同じように和歌で書き記された「和歌体」のこふき本があります。しかし、多くは「散文体」で基本的な教理をまとめています。

 また、一般的な和綴本の体裁をとった写本ばかりでなく、かなり大きな巻物の写本もあるなど、その体裁はかなり多岐にわたっています。とはいえ、記載された教理の内容自体は、教祖がくり返して話し聞かせたものです。このため、基本的にはどの写本もほぼ同じ内容になっています。

 ただし、言い伝えによると教祖は、どの写本についても「これでよい」とは仰せられなかったとされています。このため、教祖直筆の「おふでさき」や「みかぐらうた」、教祖や本席を通して伝えられた神言をそのまま書き取った「おさしづ」などに比べて、啓示の直接性は低いと考えられています。



 しかし、その内容は教祖がくり返して仕込まれた基本的教理であり、教祖を通して伝えられた親神様の教えの内容を知るうえで、極めて貴重な文献であることに間違いはありません。とくに教理史にとっては、教祖の教えを受けた人々が、それぞれに自分なりに理解した教理をまとめていることに意味があります

 その内容は、「元はじまり」の話を中心にした基本教理です。明治十四年の写本にはありませんが、明治十六年以後の写本の多くには、「前の部」として教祖の略歴が附記され、とくに立教の経緯について詳しい説明があります。ここで「神の最初の由来」と「神の古記」がセットになっているのは、決して偶然ではありません。

 元はじまりの話が主要な部分を占めるために、しばしば「泥海古記」「神之古記」といったタイトルが表紙に記され、古くは「泥海古記」などと呼ばれていました。しかし、原典とともに「こふき本」についても深く研究した中山正善・二代真柱様は、「こふき」「古記」と表記するのではなく、「口記」と漢字表記するべきではないか、と提言しています(「こふきの研究」)。




 実際に「こふき本」を手にすると、人間と世界の創造の説話だけが説かれているのではなく、元はじまりの話を中心に、さまざまな基本的教理が順序立ててまとめられていることに気づきます。そのことは、「原初天理教に於ける表明文書」のなかで紹介されている、「神の古記」にも共通しています。

「こふき本」では、この世界と生命の創造について伝える「元はじまりの話」は、「月日のやしろ」として親神の思召を人々に伝える教祖の立場と、深くかかわっていることが強調されています。また、その内容は教祖によって伝えられた教えの中核である「かぐらづとめ」の形式と、その意味を説明するものであることが詳しく説かれています。

 さらには、「十全の守護」の詳しい説明にはじまって、一人ひとりの人間が「かしもの・かりもの」の真実に目覚めて「八つのほこり」を反省し、親神様の思召に沿った生き方が出来るようになれば、「ぢば」に据えられた「かんろだい」を中心として教えられた通りの「つとめ」が完成し、神人和楽の「陽気ぐらし」世界が実現すると説かれています。

 古い写本を朗読すると、当時の教祖の面影を感じて目頭が熱くなることもあります。シンプルな表現のなかに、極めて深い意味を含んだ言葉や表現が少なくなく、簡単に理解することはできませんが、教祖を通して伝えられた親神様の教えを深く全体的に理解するうえで、極めて重要な文献であることは間違いないでしょう。

「こふき本」に記された内容は、教祖が現身をかくされた後に制度化した「別席」の内容に引き継がれるとともに、教祖が取次人にくり返して話し聞かせた伝承の形式は、九回同じ内容の話を聞いて「さづけ」の理を戴く、別席制度の在り方につながります。

 警察等に提出された手続書に体系的な教理が詳しく述べられているのは、こうした教祖の先人の方々への教えの仕込みと無関係ではないでしょう。また、教会活動の公認のために提出された書類には、基本的に「こふき」をベースにした教理と教祖の履歴が添付されました。

 前回の講義で①対外的表明文書②こふき本③布教文書に分類した、この時期に急増する教理関係の文献史料は相互に関連し合っていますし、そのことがこの時期を教理史/教会史の起点とする理由になっているのです。
 

「こふき」と布教文書

 幕末の文久・元治・慶応年間の人々は、基本的には病気の平癒を求めて、教祖のもとに集まっていました。第2回の講義で紹介した「御神前名記帳」の内容を思い出してください。

 しかし、教祖は慶応年間から「つとめ」を教えはじめ、明治2年には「おふでさき」の執筆を始めます。さらには、明治8年には「ぢば」の地点を明示して「つとめ」の完成を急き込み、「かんろだい」据えて「かぐらづとめ」が勤習される世界の実現を説きました。

 各地の講社で活動する人々の目的もまた、個人の病気の平癒から「陽気ぐらし」という理想世界の実現に転換していきます・・・講から教会へ。こうして、各地で布教活動が活発になると、教祖のご苦労がさらに頻繁になり、教祖のご苦労を回避するために教会設置と公認に向けて活動が活発になって、さらに教理関係文書は増えていくことになりました。

「原初天理教における表明文書」には、「天輪王講社信心道書抜」(明治16年3月)「天輪王講社成立ヨリ事状上申書」(明治17年7月)という遠江真明組(山名大教会)の講社に関連する文書が記載されています。





 講元である諸井国三郎の書き記した「天輪王講社信心道書抜」は、入信前後の人々に対し、教祖の教えと講社の活動の概要を説明した文書です。その冒頭には、次のように記され
ています。

天りんおふ講社は、おがみ、きとふ、をするのでは、ありません。しんじんの道を、おつたへ申すので、おはなしを、よくきかないと、御りやくは、ありません。

 この道は、拝み祈祷で病気の平癒を祈る信心ではなく、教祖を通して伝えられた親神の教えをよく心に治めて、身に行なうことの大切が強調されています。そのうえで・・・

そもそも、天りんおふの命と申は、大和国山辺郡庄屋敷村中山氏の御老母当明治十七年八十七才の御方へ、四十七年、いぜんに、月日様が、あまくだりましての、おはなしには、

と続けて、この教えは天保9年に「月日のやしろ」となられた、教祖への啓示の教えであることが確認されています。そして・・・

人間は、元、どふして、出きたか、又、国のはじまりは、大和といへども、どこが、はじまりか、しりたるものはなし、只ひとりでに、せかいも、人間も、できたよふに、おもふて、おれがからだはおれがかつてだと、おもい・・・是みな心ゑちがひなり。 

と述べて、親神の教えを通して親神の守護に満たされた世界のなかで生かされて生きていることを知り、これまでと現在の人間のあり方を見つめ直すことの大切さが説かれています。そして、そこから・・・

 このよふのはじまりは、どろの海、この中にて、クニトコダチの命、スナハチ御月様なり、この御かたより、ヲモタリノ命、スナハチ御日様なり、この御かたへ、だんじかけ、人間をこしらへ・・・

というように「元はじまりの話」が説かれて、さらに「十柱の神の守護」「八つのほこり」「かしもの・かりもの」といった基本教理を詳しく説いたうえで、講中の活動を説明しています。

 各地の講社の活動は、教祖を通して伝えられた親神の教えを広く世界に伝え、教えにもとづく生き方を広げることによって、理想の世界の実現を目指す方向へシフトしていることがよく分かります。

 また、次の「天輪王講社成立ヨリ事状上申書」には、より具体的な講社の活動の様子が記録されています。講社の成立の経緯を記したうえで・・・

入社を乞者多く有之、依りて講社中の規定定、毎月二十六日、社中集会を開き、共に真の天理人道を明弁研究して、人の人たる道に至り、真儀を厚うし、各業を勤、相助會国家の降伏を祈、

というように、講社の活動を説明しています。定期的に講中の人々が集まって、さまざまな活動をしていたようです。とくに興味深いのは、次のような「つとめ」の説明です。「つとめ」は、ただの踊りや舞いではないと理解されています。

 一、毎月二十六日集会の節神拝の御勤と申して十二下りと申して十二下りと云ふて一と下り毎に一より十二迄歌十づつあり、其前に八つ歌あり、合して百二十八の歌に、各手品致し、是は手踊にあらず、舞にあらず、前にも有之候、人間口と手と心と手と揃わねば、真の人にあらず、故に真の学を致、神の御心に習わして真儀を厚うすると云う理なり。

 鳴物は太鼓笛拍子木三品。但し勤の人員は六人、何れも講社員に限り尤も社員の家族は社員に同様に御座候

 この上申書には、これらの日常的な活動の内容に加えて、講社の会費や具体的な組織機構などが詳しく記されています。同じような記録や文書は各地の講社に残されているはずですので、さらに広い範囲の文献史料を渉猟したいと思っています。

 こうして、布教拠点としての講社の活動が活発になればなるほど、教祖のご苦労は頻繁になり、教会設置・公認の運動が盛んになっていきました。

 

明治14・15年頃の教理文書

 諸井慶徳は、「原初天理教に於ける表明文書」に掲載した文書を総括して、「かかる本教の根本教理が、矢張これらの古文書にはっきりと書き記されていることは、これまた大なる参考になることであろう」と記しています。

 ここでは便宜的に、①~③に区分して紹介しましたが、これらの教理文書に共通しているのは、教祖がくり返して仕込まれた親神の教えが、当時の人々にはある程度体系的に理解され、広く世界に発信されていたことです。



 ①~③の相関と相乗効果によって、この時期から教理関係文献はさらに増えていきます。しかし、教会設立から活動の公認を経て、さらに一派独立へと歩む歴史的変遷のなかで、前の講義でも紹介したように、表向きに表明される「教義」個々の信仰を支える「教理」二重構造化せざるを得ない状況が生じます。

 これから、終戦を迎えて「原典」にもとづく『天理教教典』が刊行され、『稿本天理教教祖伝』が編纂されるまでの歴史を辿っていくこの授業の教理史/教会史にとっては、「神道(本局)」所属の教会として設置され、活動の認可を受ける天理教会の歴史「別席制度」の成立といった出来事が大きな意味を持っています。また、こうした歴史的経緯における「おさしづ」の役割なども重要でしょう。しっかり内容を理解して、基本的な概念や用語を覚えるようにしてください。ただし・・・◎

◎次回は、教会設置・公認運動の歴史的な展開を紹介する前に、教祖のご苦労や教会公認運動の背景にある、明治政府の宗教政策と法制度について簡単に説明します。少し寄り道になるかも知れませんが、こうした歴史的背景を知ることによって、天理教史の理解がより深まるはずです。

 授業の理解をより深めたい人は、このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてみてください。



 

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