前回の講義では、『稿本天理教教祖伝』をもとに「天理教会」設置運動の足跡を辿りました。明治6年の「教会大意」によって、江戸時代に発達した各種の民間の宗教活動=「講」は「教会」として再組織化され、その活動は政府や地方庁の認可を受けるという認可制度が確立していきます。
明治以降の社会のさまざまな領域に設定された、この「官許」のシステムが制度化されると、自動車の運転免許が制度化されると無免許運転は許されないように、未認可の宗教活動自体が規制の対象となります。さらに、「官許」を得ていない活動の取り締まりが「違警罪」の成立によって強化されると、これが教祖の「御苦労」の要因になっていきました。
このため、教祖の教えを信奉する人々は「教会」を設立して、宗教活動の認可を受けるための運動を展開し、明治18年には「神道直轄天理教会」の設置に至ります。しかし、公認された社寺に所属する「教会」を設置した場合も、新しい「教会」はそれぞれに地方庁の認可を得る必要がありました。
◎「教会・講社結集、説教所設置許可のときは、当事者より地方庁へ届出せしむる件」(明治16年)
教会設置のあとも、教祖の御苦労は続くことになるのです。また、「神道直轄六等教会」というのは「神道(本局)」という神道系教派の一つに所属する教会という意味であり、「神道(本局)」が独立の教派としての活動を本格化させると、所属教会である「天理教会」の活動内容が、本体である教派とあまりに食い違うことは、問題視されるようになります。
このため、明治19年5月29日付で「五ケ条の請書」が提出されました。このことが、表向きに表明される「教義」と実際に説かれる「教理」の二重構造化の出発点になるのです。
こうしたなか、明治20年正月26日(陽暦2月18日)に、教祖は「現身」をかくされました。
一年祭のふしと教会公認
教祖が現身をかくされた直後、飯降伊蔵を通して神意を伺うと、次のようなお言葉がありました。
さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。
こうして、現身をかくした教祖は「存命」のまま働くことが宣言されます。そして、教祖の姿は見えないだけで、以前と同じように生きて働いてくださるという「存命の理」を前提にして、教祖の教えを世界に広げる活動は継続していきました。
しかし、姿の見えない教祖を警察などへ連行したり、拘留したりすることはできません。このため、教祖のご苦労を回避するために行われてきた教会公認の活動は、しばらく沈静化することになります。再び教会公認への動きが活発になるのは、明治21年の教祖1年祭以降のことです。
一年祭の執行に、異を唱える声を振り切って年祭を始めます。すると、櫟本警察分署長が巡査八名を率いて乗り込んで来て、祭式の中止を命じて参拝の信者を全部門外に追い出し、表門裏門を閉めて巡査を番につけ、その他の巡査が靴のまゝ室内を歩き廻って斎主以下教職一同の住所姓名を手帖に書き留める、という事態になりました。
『稿本中山眞之亮伝』には、このとき分署長が申し渡した言葉が、次のように記載されています。
「本職等は、敢て今日の如き事は致したくもなし。然れども、謂れなく、殊に政府の許可も受けず、ひそかに衆人を集むる如きは、今日の法律の禁ずる処なり。今日の現況を以て貴方を処分せば違警罪なり。違警罪ぐらいは厭わる事なかるべし。故に、処分はせざるが、しかし、このまゝにては不都合千万なり。必ず手続をふんで政府の許可を受くべし。以来一人だも此所へ招く事はなりませぬ。」
「政府の許可」なしには、教祖の一年祭さえ満足に執行できない状況に直面して、再び教会公認への動きが活発化します。教会活動の公認申請は、地方庁へ届出されます。先の公認申請の段階では、現在の天理市の地域は大阪府の管轄でした。しかし、明治20年11月に大阪府から分割された奈良県が設置されています。
このため、当初は奈良県への出願を検討しますが、すでにその管轄下で教会を設置していた「神道(本局)」のある東京府(当時)で、教会設置と活動公認の申請を行なうことになりました。「神道(本局)」の前身は、政府の機関である「神道事務局」であり、管長の稲葉正邦は明治政府の要職を歴任した人物です。かなり行政側とのつながりを、期待できたのではないでしょうか。
早速、東京で拠点となる場所を確保し、初代真柱さまをはじめとする人々が上京して、明治21年4月5日(正式には4月7日)に「天理教会所設置御願」を東京府知事宛に提出します。この申請には、4月11日になって、次のような返答がありました。
「書面願え趣聞届候事 明治廿一年四月十日 東京府知事 男爵 高崎五六」
こうして、4月10日付で待望の官許を得ることになりました。初代真柱さまは、上京するとき留守役の梅谷四郎兵衛に対して、次のように語ったと伝えられています。
「こうやって教会設置の出願のために東京へ行くけれども、望みが叶って西向いて帰れば結構だが、もし望みを遂げられぬ場合には、再びと西を向いて帰らん決心である。その折は、梅谷お前が第二の人数の準備をして東京へ出るのやで。それでも、もし、未だ駄目な時には第三の人数を拵えて来い。」
さあ/\談示の理を尋ねる/\。さあ/\談示の理を尋ねるから、一つの理を諭す。世上の気休めの理を、所を変えて一寸理を治めた。世上には心休めの理、ぢばには一寸理を治める。ぢばの理と世界の理とはころっと大きな違い。世界で所を変えて本部々々と言うて、今上も言うて居れども、あちらにも本部と言うて居れど、何にも分からん。ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる。ぢばがありて、世界治まる。さあ/\心定めよ。何かの処一つ所で一寸出さにゃならん。さあ/\一寸難しいであろう。どんな道もある。心胆心澄ます誠の道があれば早く/\。
との神意が伝えられました。教会本部のあるべき場所は、東京ではなく「ぢば」なのです。「ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる。ぢばがありて、世界治まる」という、極めて強い言葉で教会本部の移転を促された人々は、せっかく取得した官許を失う不安を抱えながらも、神意に従う決意を固めます。
奈良県への移転の手続きは、予想外にスムーズに進み、7月23日に移転届を提出して、11月29日(陰暦10月26日)に、天理教会本部の移転・開設を祝す開筵式が執行されます。このときの盛大な式典の様子は、『稿本中山眞之亮伝』に詳しく記されています。
教会本部が開設されると、直轄分教会の設置願いが続々と出されます。
明治二十一年十二月五日 諸井国三郎分教会再願の願(山名)十一日 郡山天竜講分教会伺(郡山)明治二十二年一月十五日 大阪真明組分教会設置の伺(芦津)同日 大阪明心組より分教会所御許し願(船場)同日 神戸兵庫真明講より天理分教会設立の儀御許し願(兵紳)同 二月十八日 斯道会の分教会の件に付おさしづ(河原町)同 三月 三日 河内国講社中より分教会設置願(中河、高安)同 八月二十六日 撫養斎田村に於て支教会設置の願(撫養)
さらに各地の分教会の開筵式も、それぞれ盛大に挙行されました。明治21年~22年にかけて設置された直属教会とその担任者は、以下の通りです。
明治二十一年郡山 奈良県 平野楢蔵山名 静岡県 諸井国三郎明治二十二年芦津 大阪市 井筒梅治郎船場 大阪市 梅谷四郎兵衛兵紳 兵庫県 清水与之助高安 大阪府 松村吉太郎河原町 京都市 深谷源次郎撫養 徳島県 土佐卯之助東 東京市 上原佐助
こうして、各地に設置された教会も官許を得て、教祖の教えは急速に広がっていくことになりました。
「おさしづ」の教示と教会制度
各地で教会設置が続くなか、明治22年3月31日に、郡山分教会所から「郡山分教会所に御神楽御道具を御許しの願」という伺いが為されています。これに対しては、次のような「おさしづ」がありました。
さあ/\尋ねる処よう聞き取らねば分からん。道の処一つの理、一つの理を、さあ理を下ろしたる処、十分の道も、一寸世界の道を計りたる処、真実日々一つ思う処、よう聞き取れ。めん/\一つ治めにゃならん。十分どちらとも/\同じ事なら、一つの理思う。多くの処道の処、理を下ろす。皆人衆一つ理である。人衆の理を計らねばならん。ぢば一つ始め出しという。それから道から所々から運ぶ処から、一つ理が治まる。人衆の心から悟り、鳴物の理十分理で治まる。道具これまで、神前に道具飾る。十分の理を諭して置く。道具の理皆許す中一つ元一つ人間始め出したる、これだけぢば一つに限るという事をさしづして置く。
「かぐらづとめ」の道具は、「ぢば一つに限る」という神意が明確に示され、各地の教会での「つとめ」と「ぢば」を中心にした「かぐらづとめ」の違いが説かれました。「ぢば」の理を明かし、教会本部と各地の教会の順序を明示するとともに、「かぐらづとめ」の理合いについて、極めて明確に諭されています。
先に紹介した、教会本部の移転・開設についても、つねに「おさしづ」によって基本的な方向性が示されていました。この時期の教会史を考察する場合には、その時々の「おさしづ」がつねに重要な意味を持っています。「おさしづ」に言及することなしに、初期の教会制度の成立について語ることはできません。
さあ/\尋ねる処、尋ねて一つ心の理があれば、尋ね一つさしづしよう。どういう事であろう。さあ/\止まる実際尋ねるまで一つ理、つとめ一条の理、多くの中、幾重心得もだん/\始め、鳴物一切道具許そう。第一人間一つ始め、人衆一つの理、だん/\話一つ/\、一時尋ねるまでの理であろう。面はぢば限り。このお話して置こう。
九つの鳴物や他の道具の使用は認められていますが、「面はぢば限り」として明確な神意が示され、「かぐらづとめ」が勤習される「ぢば/教会本部」を中心に、各地の教会が活動する教会制度の基本的なかたちが明示されています。
こうして教会公認後は、教祖の御苦労に直結した迫害や干渉は少なくなり、行政や法律の規制を受けなくなった天理教会は、しばしば「燎原に火を放つ」と表現されるように、急速に拡大していくことになりました。
よく引き合いに出される事例ですが、明治21年の教祖1年祭の際には、櫟本警察分署長と巡査八名によって、集まった人々は解散させられました。その一方で、明治24年に3月6・7・8日(陰暦正月26・27・28日)の三日間に亙って執行された教祖5年祭では、十数名の警官が出張して、参集した人々の保護・警備に当たりました。
参拝した信徒に支給された弁当だけでも3万5千を数えていますので、警官の仕事はかなり忙しかったのではないでしょうか。公認と未公認では、これほど状況が違うのです。警官の対応は、教祖1年祭と5年祭では180度変わりました。当時の社会の様子が、よく分かるエピソードではないでしょうか。「官許」があれば、取り締まる理由はないのです。
しかし、この宗教活動の認可は、「神道(本局)」に所属する「天理教会」への公認でした。前回紹介した、「五ケ条の請書(明治19年5月29日付)」に明記されていたように、「神道(本局)」の教規には、「天理王命」という神名はありません。また、「元はじまりの話」にもとづく教説や「つとめ」を中心とする祭儀は、天理教会の母体である教派(神道本局)の教説や儀式とは、本質的に相容れないものでした。
このため、表向きに表明される「教義」と、実際に説かれる「教理」の二重構造化の問題は、時代が下るとともにより深刻化していくことになるのです。「爆発的」と形容しても過言ではない勢いで、急速に拡大した天理教会の布教活動は、次第に世間の衆目を集めて、各地の教会の活動は社会問題化していきます。
そうしたなかで、明治29年に「内務省訓令甲第12号/秘密訓令」が出されて、天理教会の活動が再び規制されるなかで、「一派独立」への動きが加速化していくことになるのです。
この講義の目的の一つは、受講生の皆さんに「天理教会設置」と「教会公認/教会本部開設」、さらには「天理教一派独立」の違いをしっかりと認識してもらうことです。もう、明治18年の「神道天理教会」の設置と、明治21年の「天理教会本部」の開設(教会公認)の違いは理解できたでしょうか。
次の段階は、「一派独立」です。なぜ、「天理教会」は「神道(本局)」から独立して、「天理教」という独立教派を設立することになるのか。さらには、その後の教会史/教理史の展開はどのようなものになるのでしょうか。まず、この時代に宗教団体が「一派独立」することの意味から説明しますので、後半の講義でしっかり学んでください。
ただし・・・
◎次回は少し寄り道をして、秘密訓令から一派独立への歴史を辿る前に、別席制度の確立について紹介します。「さづけ」の理の意義についても、詳しく説明する予定です。
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