教祖ご在世当時の教理史/教会史
初回の授業では、この講義の概要を説明しました。グーグルフォームの質問にもよく答えていましたが、「教理」と「教義」の質問への解答にばらつきがありましたので、いま一度確認しておきます。模範解答の一つは、以下の通りです。
「教理」は、ある特定の宗派や教団の成員たちに共有された信仰上の教えのこと。こうした概念の区別は、なぜ重要なのでしょうか。一つの理由は教理史を中心にして天理教の歴史を辿るときに、この区別が必要とされるからです。とくに戦前の天理教の歴史を考える場合に、この区別は極めて重要な意味を持っています。
完全に信教の自由が認められている現在の日本とは全く違って、明治維新以来の日本の政府は、初期には神道国教化政策を進めて宗教国家の樹立をはかり、その失敗によって宗教政策を転換し、名目上は信教の自由を認めた後も宗教活動に厳しい制約を加えました。
戦前の日本では、宗教活動は「認可制」であり、未認可の宗教団体は「類似宗教/疑似宗教」として取り締まりの対象になりました。ちなみに、認可された宗教団体のカテゴリーは「神道系」と「仏教系」と「キリスト教系」の「三教」だけであり、これらのカテゴリーに入らない宗教活動が認可されることはありませんでした。しかも「三教」のうち、キリスト教の存在が公式に認められるのは、かなり後の時代になってからです。
天理教は、明治18年に神道系教派の一つである「神道(本局)」に部属する「天理教会」として組織化され、明治21年に教会活動の公認を得ます。さらに明治41年に、所属していた教派である「神道(本局)」から独立して「天理教」という独立の宗教団体になりました(一派独立)。しかし、戦前は「神道系」の教派として活動していた/活動せざるを得なかったのです。
このため、教会を設置した当初から所属団体である「神道(本局)」の「教義」と教祖の教えの違いをカモフラージュする必要に迫られました。その一方で、教祖は「おふでさき」を執筆し、現身をかくす直前まで独自の祭儀である「つとめ」の勤習をせき込み、極めて特殊な教理を説き続けます。一派独立したあとは、ある程度は独自の教説を説く自由を得ますが、戦時中は厳しい思想統制下で再び活動を制限されることになりました。
戦前の天理教は、時代の荒波に翻弄されながら表向きの「教義」と信仰上の「教理」が二重構造化した活動を続けざるを得ませんでした。この状況が180度転換し、完全な信教自由の制度のもとで、「原典」にもとづく「天理教教典」を刊行できたのは、戦後の昭和24年になってからです。ちなみに、戦後の「天理教」は「復元」を提唱して独自路線を明確にし、神道でも、仏教でも、キリスト教でもない「諸教系」の教団として、再出発することになります。
この授業では、「原典」をもとに「教義」と「教理」が合致されるまでの天理教の教理史/教会史について、当時の政府の宗教政策や時代背景に着目しながら考察していきます。
近年では、かつて日本と中国、日本とアメリカの間に戦争があったことも知らない若者が増えていると聞くことがあります。歴史は、現在と未来を考えるための重要な手がかりです。皆さんの身近にある「原典」や「教典」の来歴について学ぶことは、これらのテキストを読み深めることに役立つでしょう。また、教会の歴史を正しく知ることは、これからの時代の天理教のあり方を考えるためのヒントを与えてくれるはずです。
教理史/教会史の史料
それでは、「月日のやしろ」としての教祖の教えを人々はどのように理解し、その教えを他者に伝え、世界に発信していったのでしょうか。この歴史を辿ることは、それほど簡単なことではありません。
というのも「歴史」は、歴史的な事実を検証できる文献史料の存在とともに成立するからです。文字で書き記された史料を読み解くことで、はじめて歴史を語ることができます。文字が存在しない過去の時代を探る学問は、歴史学ではなくて考古学です。教祖が説いた教えを人々がどのように理解し、その教えを他者に伝えていたのかを歴史的に検証するためには、まず当時の人々が書き残した文献史料が不可欠になります。
しかし、教理史/教会史の起点となる文献史料は、教祖の「ひながた」の晩年になるまで見つけることはできません。その理由の一つは、少なくとも教祖の「ひながた」の初期には、誰も教祖の言葉を「神の言葉」とは受け取らなかったことです。
*「ひながた」・・・立教から「現身をかくす」までの「月日のやしろ」としての教祖の歩みを、あらゆる人間が理想とすべき模範的モデル(雛型)と見なす教理。
天保9年(1838)10月26日の立教以来、明治20年(1887)正月26日(陽暦・2月18日)に「現身をかくす」までのほぼ50年のあいだ、教祖は「月日のやしろ」として、親神の教えを伝え続けました。しかし、立教のあと教祖が中山家の私財を人々に限りなく施し、家屋敷も手放す状況になると、近在の人々や親戚たちは狐やタヌキの憑き物ではないかと疑い、誰も寄りつかなくなる状況が長く続きます。
突然、「神になった」と宣言し、このことは「世界のはじまりの時から決まっていた」と語ること自体は、やろうと思えば誰にでもできます。しかし、周囲の人々がそう宣言した人を「神」であると認め、その言葉を神のメッセージであると信じるようになることは、決して簡単なことではありません(というか、ほとんどの場合に不可能です)。
皆さんのなかに、少しでも布教活動に関わった経験のある人があれば、きっとよく分かるはずです。「このパンフレットを読んでください」と言って手渡すのは、それぼど難しいことではありませんが、「なるほど、素晴らしい教えですね」と相手が心をこちらへ向けてくれるのは、千枚・2千枚のパンフレットを配っても一度あるかないかの出来事です。「ひながた」とされる50年間は、教祖の周囲の人々が、教祖の教えを「神の言葉」であると確信できるようになるための期間でもありました。
天理教の教祖の場合は、立教から現身をかくすまでの50年間のうち、ほぼ半分の期間はただ困窮している人々をたすけ続けるだけで、相手から神のように崇められることはありませんでした。しかし、家財や家屋敷を人々に施し、残った小さな建物に暮らしながら家族揃って懸命に働き、自分が明日食べる米も人々に施しながら陽気に暮らし続けるなかで、周囲の見方が変わってきます。
「をびや許し」(安産の守護)を「道あけ」として、人々が教祖を「生き神様」として崇め、慕い寄ってくるようになるのは、幕末の文久・元治・慶応年間のことになります。教祖はこの頃、すでに60代になっていました。このため、「月日のやしろ」となられてから20~30年くらいの期間は、「月日のやしろ」としての教祖の教えを人々はどのように理解し、その教えを他者に伝え、世界に発信していったのか、といった問いに答える文献史料は、ほぼ残されていないのです。
さらには、教祖を「生き神様」として慕い寄る人々が増えてきても、それは従来のご利益を求める信心であって、教祖の言葉をこの世界の真実を伝える神の言葉として受けとめ、理想の世界の実現へ向かう道筋を広く世の中に伝えていくような営みは行われませんでした。元治元年に「つとめ場所」(最初に建設された神殿)の普請が行なわれた際、教祖の指示に従って大きな事件となり、ご利益信心の人々が離れていった出来事などは、当時の人々の信仰のあり方をよく表しています。
教理史/教会史について語ることを可能にしてくれるような文献史料が登場してくるのは、もう少し後の時代になるのです。
教祖ご在世の時代の教理史/教会史
ただし、多くの人々が集まるようになった幕末の頃には、少しは文献史料が残されはじめます。代表的な文献史料は、慶応3年4月~5月までの参詣者の名簿を書き記した「御神前名記帳」です。この記録には、1カ月余りの期間に参詣した2,000名を超える人々の名前が記されており、その傍らには居住地や年齢、祈願の内容(多くが病名)などが書き添えられています。シンプルに書き添えられた病名からは、当時の人々が教祖に求めていた祈願の内容が分かります。また、名前や居住地の記載等は、どのような人々が集まってきていたのか、類推する手がかりを与えてくれます。
最も参詣者の多い4月26日は、156名の名前が記されており、平均すると一日60名余りの人々が中山家を訪れています。この記録は、単なる名簿以上に当時の状況を教えてくれる史料になっています。かつて、天理教校本科の学生であった頃に、写真版で原本を読む機会がありました。古い文献には、その内容以上に文字や文献の体裁など、原本に触れることでしか得られない情報が沢山つまっています。歴史に興味のある人は、天理教関係の文献史料自体にも、せひ関心を持ってください。
また、これほど多くの人々が集まるようになると、近在の山伏(修験者)や医師などによる妨害が目に余るようになります。江戸時代の修験者や祈祷寺院の役割は、現在の医者に近い側面があり、教祖のもとに病人を含む多くの人々が集まるのは不都合なことでした。このため、教祖の長男・中山秀司は、古市代官所を通して領主の添書を得て、京都の吉田神祇管領に活動の認可を願い出ます。『稿本天理教教祖伝』(以下『教祖伝』)には、このときの願い出の文書である「乍恐口上之覚(おそれながら こうじょうのおぼえ)」を貴重な文献史料として記載しています。
註一 古市代官所へ呈出した文書の控
乍恐口上之覚 庄屋敷村 願人 善右衞門
一、私儀従来百姓渡世之ものニ御座候、然ルニ三十ケ年余己前、私幼少之頃癇病(風毒)ニ而、足脳ミ候ニ付、亡父善兵衞存命中、私方屋敷内ニ天輪王神鎮守仕信心仕(中略)然ルニ右信心之儀諸方江相聞近来諸方ヨリ追々参詣人有之就而ハ、神道其筋ヨリ故障被申立候而ハ、迷惑難渋仕候ニ付此度京都吉田殿江入門仕置度奉存候ニ付乍恐此段御願奉申上候、何卒御情愍を以、吉田殿江之御添翰被為下置候様奉願上候、右之趣御聞届被為成下候ハヽ難有仕合可奉存候、 以上
慶応三卯年六月 庄屋敷村願人 善兵衞同村年寄 庄作同村 平右衞門同村庄屋 重助服部庄左衞門様(備考 後の方の「願人 善兵衞」は、「願人 善右衞門」の誤記と思われる。)
『教祖伝』には、こうした文献史料が原文でしばしば記載されています。貴重な文献が多いので、よく確認してください。
ここに「善右衞門」とあるのは、中山秀司のことです。江戸時代の庶民には名字はありませんので、中山家のような庄屋格の家ではしばしば名前を受け継ぎました。「善兵衞/善右衞門」は、「綿屋」の屋号とともに受け継がれた名前です。
ここには、自らの足の病をもとにした立教の経緯とともに、「近来諸方ヨリ追々参詣人有之就而ハ、神道其筋ヨリ故障被申立候而ハ、迷惑難渋仕候ニ付(近年、方々から参詣人が集まるようになって、さまざまな方面から妨害を受けるようになり、迷惑して困っていますので)」というように、このときの申し立ての理由が述べられています。また、ここで「中略」となっている部分には、本文では信仰の対象となる神に関する記述があります。しかし、吉田神道の「神代七代(天神七代)」に合わせて記述されている神の説明は、教祖の教えを直接に伝えたものとは言い難い内容でした。
この願い出は、慶応3年7月23日付けで認可を得ました。しかしその際、教祖は「吉田家も偉いようなれども、一の枝の如きものや。枯れる時ある。」と仰せられます。このお言葉の通り、明治維新によって江戸時代に「本所」として全国の神職取締役となっていた吉田家の役割は廃止され、吉田家のお墨付きも意味を失うことになりました。
この「乍恐口上之覚」は、外部の機関に対して教祖の教えにもとづく活動を公に表明した最初の文書であり、教理史/教会史にとって極めて貴重な史料であることは確かです。しかし、教理史/教会史の起点となる文献史料が本格的に登場してくるのは、もう少しあとの時代になります。
具体的には、明治10年代以降です。そして、急激に増える文献史料は、すぐに数えることもできないほどの分量になりました。その理由については、これからの講義で詳しく説明することにしましょう。
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