2021年9月14日火曜日

天理教史特殊講義2 第1回


天理教史研究と教理史/教会史

 皆さん。こんにちは。天理教学特殊講義2/天理教史研究を担当する、宗教学科の岡田正彦です。この授業は宗教学科の2~4年次生を対象にした選択必修科目です。全学開放科目ですので、他学部・他学科の人たちも受講できます。

 この授業では、幕末から明治期に成立し、大正・昭和の日本の発展期に大きく広がり、太平洋戦争の激動期を経て現在に至る天理教の歴史について、背景となる日本の近代史を意識しながら、詳しく紹介していきます。

 この授業の目的は、次のようなものです。

天理教の教会史と教理史の展開を辿りながら、明治・大正・昭和初期における日本の社会状況に、天理教史を位置づけて理解する。

 また、次のような講義概要を掲げています。

 明治・大正・昭和初期という激動の歴史のなかで、現在の教会制度の基盤を形成してきた天理教の歴史は、近代的宗教概念の導入と定着により、目まぐるしく宗教政策の転換をくり返した近代日本の政治体制や社会状況と密接に関わっている。

 また、一方でその歴史過程には、教祖の深い思惑や意志の反映を感じる場面が少なくない。この授業では、ご存命の教祖の思召をたずねる「信仰史」の立場から、近代日本における天理教の歴史を辿っていきたい。

 ここで「信仰史」の立場としているのは、天理教の信仰を前提として歴史的事実と向き合う姿勢のことです。天理教の信仰に基づけば、明治20年正月26日(2月18日)に「現身をかくした」教祖は、現在も存命のままはたらき続けているとされています。そうだとすれば、天理教の教祖の伝記は、明治20年に終わったのではなくて、これまでも/これからも続いていくことになるでしょう。

 この授業を履修する2年次生以上の皆さんは、1年次に「教祖伝」の概略を学びました。この授業では、天理教史を存命の教祖と結びつけて考えるような「信仰史」の立場を意識しながら、主に教祖伝の「第十章 扉ひらいて」以降の天理教の歴史を現代に近い時点まで辿っていきます。



『稿本 天理教教祖伝』に続いては、初代真柱の生涯をまとめた『稿本 中山眞之亮伝』が刊行されています。天理教教会本部が編纂する天理教の「正史」(天理教教会本部の権威のもとで編纂・刊行される史伝)は、教祖伝➡初代真柱伝➡二代真柱伝・・・というように、これからも連綿と紡がれていくでしょう。




 しかし、この「正史」は未だ刊行の途上です。『稿本 中山眞之亮伝』に記された天理教の歴史は、初代真柱の生涯とともに、大正3年でとまっています。

 現代に至るまでの「天理教史」を辿るためには、「青年会史」「婦人会史」のような組織や各地の教会の「教会史」、学校などの諸機関の歴史を総合的に俯瞰する必要があります。また、天理教の機関誌である『みちのとも』『天理時報』、その他の出版物に残された記録をもとに歴史を辿ることも大切でしょう。

 天理教の教会や諸機関から刊行されている逐次刊行物には、月刊や週刊、季刊などの違いはあっても戦前から戦後まで継続的に刊行されている出版物が少なくありません。これらを網羅的に整理することは、近代日本の宗教史、文化史、社会史にも貢献することになるかも知れません。

 天理教の歴史は、幕末から明治維新、大正・昭和という激動の時代を駆け抜けた近代日本の歴史と不可分であり、教会の設立・公認から一派独立へといった制度・組織としての「天理教」の歴史を振り返る場合でも、政治体制の変化や法律の制定、社会制度や文化の傾向、思想の潮流といった時代背景を無視することはできないのです。

 天理教史の課題となるテーマは多岐にわたっていますが、この授業ではとくに、教理史/教会史を意識しながら、天理教の歴史を辿っていきます。


教理史/教会史の射程

「教理」とは、ある特定の宗派や教団の成員たちに共有されている、信仰上の教えのことです。先ほど述べた、教祖の「存命の理」などは、その典型的な例だと言えるでしょう。特定の信仰を共有する人々にとっては信じるべき教えであっても、信仰を共有しない人々にとっては納得し難い教えであることもあります。

 このような「教理」を人々はどのように語り、他者に伝えてきたのか。この教えを伝えるプロセスは、共通の教えを真理であると信じる人々の営みが広がっていく過程と重なっています。つまり「教理」を伝える人々の営みの歴史/教理史は、教祖を通して伝えられた親神の教えを真理であると信じる人々の活動の歴史/教会史と重なり合っているのです。

 特定の教えを信じる人々の営みを具現化するのが「教会」であり、教理史と教会史は同じコインの表裏のような関係にあると言ってもよいでしょう。

 この授業で辿っていく【教理史/教会史の射程】は、次のようなものです。



 天保9年(1838)10月26日の立教以来、「月日のやしろ」となられた天理教の教祖は、明治20年に現身をかくすまで、自らの口・筆・行いを通して親神の思召を人々に伝え、あるべき人間の姿を身をもって示しました。天理教の信仰者にとっては、教祖の書き残した文書や語った言葉、活動の足跡はすべて、神の意志を直接に伝えるメッセージであると考えられています。

 それぞれの時代の人々は、このメッセージをどのように受けとめ、他者へ伝えてきたのか。たとえば、性別や家柄、身分の違いなどにかかわらず、すべての人間は本質的に平等であると説く教祖の言葉は、現在に生きる我々と幕末・明治維新の時代に生きる人々では、まったく違う響きを持って受けとめられたことでしょう。さらにそのメッセージを社会に発信していく場合には、もっと時代や社会の制約を受けたはずです。

 明治維新から大日本帝国憲法の成立、帝国主義の時代から過酷な戦争の時代を超えて、戦後の民主主義の時代に至る激動の歴史のなかで、人々は教祖を通して伝えられた親神の教えをどのように理解し、人々に伝え世界に発信してきたのか。この足跡をたどることは、教祖の伝える理想を実現するために組織や制度を確立し、布教活動を行なってきた「教会」の歴史を辿る営みと切り離すことはできません。


天理教史と近代日本の宗教政策

 また、明治維新後の近代日本においては、大日本帝国憲法のもとで「信教自由」を保障する一方で、天皇を中心とする政治的権威を神聖化する特異な日本型政教分離/国家神道体制が成立していきます。二転三転する政府の宗教政策のもとで「教会」を設立し、組織や制度を確立していく天理教会/天理教の歴史は、この時代の宗教政策や法制度と切り離して論じることはできません。

 とくに天理教の教理史を考える場合には、戦前の日本の特異な宗教政策のもとで形成されてきた天理教会の歴史的変遷が、極めて重要な意味を持っています。

「教理」を教会のような特定の組織によって権威づけたとき、その教えは「教義」となります。たとえば、ローマ法王がある教理解釈を正式に表明すれば、これは教会の権威によって定められた教義になります。天理教の場合は、真柱教義の裁定者となっています。

 しかし、明治維新以降の激動の時代のなかで、天理教の教義として正式に表明される教えは、教祖から直接に伝えられた教えと直結できない時期が長く続きました。外部に天理教の教義として表明されている教えが、実際の布教の場面で説かれている教理と一致しない時期も続きます。しばしば、教理教義が乖離して二重構造化する、複雑な歩みを重ねた天理教の歴史を辿りながら、近代日本における宗教と政治の関係についても理解を深めていきたいと思っています。


教理史/教会史の時代区分

 具体的には、次のような時代区分を設けて教理史/教会史の足跡をたどっていく予定です。


1. 教祖御在世時代
―対外的表明文書・「こふき」・布教文書―
2. おさしづ時代
―教団の形成と教理理解の深化―
3. 一派独立と教学の高揚期
―大正デモクラシーと第2世代の登場―
4. 原典公刊から「革新」の時代へ
―原典の公刊へ―
5. 「復元」のあゆみ
―「元」をたずねる―
6. 教義学としての教理研究の確立
―「月日の教」の意義を求めて―

 幕末・明治維新の激動期に広く社会へ発信された教祖の教えは、日本の近代社会の成立期に大きく広がり、さまざまな政治的・社会的動向と密接に関わりながら、特異な歴史的条件のもとで独自の展開を遂げてきました。

 この授業では、教祖による教えの展開・伝達過程を意識しながら、明治・大正・昭和初期の教理史/教会史を辿っていきます。とくに、国家の宗教政策が目まぐるしく変遷するなかで、教会設置・公認から一派独立への歩みを進めてきた天理教の歴史を深く学び、現行の「天理教教典」や「原典」の意義について、理解を深めてもらいたいと思っています。

次回は、まず教祖ご在世の時代からはじめましょう。教祖から直接に教えを受けた人々は、まず教祖の教えをどのように受けとめ、それを他者に伝え、広く世界に発信してきたのでしょうか。


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