2021年9月30日木曜日

天理教史特殊講義3 第3回


教祖ご在世当時の対外的表明文書

―教理史/教会史の起点―


 まず、もう一度この授業の中心的なテーマである、教理史/教会史の射程について確認しておきます。



「月日のやしろ」とは、親神の思召を直接に伝える立場です。天保9年に教祖が「月日のやしろ」になられてから少なくとも信仰者の立場から見れば教祖(おやさま)が筆に記したり、人々に伝えたりしてきた教えは親神の言葉そのものであり、日々の行いは正しい人間の生き方のモデルなのです。

 いわゆる「啓示」として、「啓(ひら)き示され」てきたこの世界の真理を周囲の人々はどのように理解し、それを他者に伝え世界に発信してきたのか。教祖を通して開示された真理は、極めてユニークであり、ときには一般的な社会通念を越える内容を含んでいます。この真理を特定の時代状況のもとで理解し、他者に伝えてきた人々の営みを歴史的に辿ることが、ここでの「教理史」の営みです。

【啓示】神または超越的な存在より、真理または通常では知りえない知識・認識が開示されること。

 教祖の教え/真理他者に伝えていく営みは、その営みに従事する人々の共同体の形成と切り離すことはできません。このため、この講義では教理史と教会史を結びつけながら、「原典」にもとづく『天理教教典』が刊行されるまでの歴史を辿っていくことにしました。

 しかし、前回確認したように、教理史のもとになる文献史料を見いだすことができるのは、教祖の「ひながた」の晩年のことになるのです。


教理文書の増加と内的/外的要因

 しかし、これも前回の講義の最後に書きましたが、教理史の史料になる文献は、ある時期から一気に急増することになります。とくに「ひながた」の晩年の明治14・15年くらいには、教祖の教えを当時の人々がどのように理解し、他者に伝えていたのかを知るための文献史料が、数えきれないほど増えはじめます。

 これには、内的/外的両面の要因がありますが、理解のためのキーワードの一つは「①対外的表明」です。「表明」とは、「意見や意志などを人の前にはっきりと表し示すこと」ですので、ここで「対外的表明」と言うのは、「教祖の教えを知らない人たちに、親神のメッセージをはっきりと述べ、示すこと」くらいの意味でしょうか。

 教祖が「おふでさき」の執筆をはじめるのは明治2年(1869)ですし、「つとめ」を教え始めるのは、これに先立つ慶応2年(1866)からです。教祖による教え/真理の「啓示」は、すでにこの時期から本格化していますが、明治10年代になるまでは、先人の方々の覚書程度の記録しか教理文書は残されていません。教祖の教えを受けた人々が、自らの理解をもとに教理を書き残すようになるのは、まず「外」からの圧力によって、「わたしたちの信じている”教え”は、このようなものです」と書き記すことが求められたからでした。…外的要因

 具体的に言うと、まず教祖のご苦労がはじまるなるなかで、県庁や警察に呼び出された人たちが取り調べを受けて、「手続書」などの書面を提出しました。教祖のご苦労がより頻繁になるにつれて、こうした文書は増えていきますが、これらのなかに「教祖の教えは・・・」とか「教祖は・・・」といった説明が加えられていきます。これらは、正式に書き記された文献なので、当時の人々が教祖の教えをどのように理解し、他者に伝えようとしていたかを知るうえで、極めて貴重な文献史料です。

*最初のご苦労は明治7年ですが、明治14年頃から教祖のご苦労がより頻繁になっていく理由としては、この頃急速に教えが広がっていくことと同時に、明治政府の宗教政策の転換新しい法制度の成立が深く関わっています。このことについては、再来週くらいに一度ゆっくり説明する時間を設けるつもりです。




 また、この時期(明治14年頃)に教祖は「こふきを作れ」と仰せになって、身近な人々に自ら理解していた教祖の教えを書き記すように命じます。このときに書き残された、教祖の教えの覚書とその写本のことを「②こふき本」と言います。これが二つ目のキーワードです。「こふき本」も教祖の教えの内容を教えを聞いた人々が理解し、「表明」した文献であり、教理史の起点になる文献史料です。…内的要因

 さらには、この時期には全国各地で布教活動が活発になります。各地に設立される講社などでは、教理の覚書や入信した人たちに基本的な教えを伝えるための文書などが広く書き残されます。これらの「③布教文書」もまた、教理史の起点となる貴重な文献史料です。これが三つ目になります。…内的/外的要因

 これら三つの要因が相互に作用するかたちで、この時期から教理文書が広く書き残されていくことになるのです。


就御尋手続上申書

 明治14・15年には、教えはかなり広い地域に伝わっています。5が2倍になっても10にしかなりませんが、50が2倍になれば100になります。「ひながた」の初期とは、教えの広がり方のペースが変わっています。また、この時期にはすでに鉄道網は全国に広がり、郵便制度も確立していました。地域的にも道は大きく広がっていきます。

 各地の講社等に残された文書を含めて、すべての教理文書を網羅するのは、決して容易ではありません。このため、この授業では『復元』(第4号)に掲載された、諸井慶徳「原初天理教に於ける表明文書」に紹介されている教理文書をもとに、①~③の文書の傾向を考えてみましょう。

*『復元』は、教祖伝、真柱伝、本席伝、高弟伝、教会史等の史料並びに教義に関する研究の集成を目的とする逐次刊行物であり、昭和21年(1946)4月の創刊号から刊行が続いている。

「原初天理教に於ける表明文書」は、教祖ご在世の時代を「原初時代」として、1,000年後、2,000年後の未来を見越して、初期の天理教の教理文書をとまとめています。2,000年以上の歴史を経た、仏教やキリスト教では、教祖や教祖の直弟子時代の文書はしっかり残っていません。

「原初時代」という言葉は。仏教研究の用語である「原始仏教/根本仏教」などを意識したものではないでしょうか。「原始仏教」の時代を知るための文献史料は、残念ながらまったく残されていません。仏教の場合は、釈迦本人の言葉や直弟子たちの言葉をそのまま知る術は、もう失われてしまいました。天理教がいつか世界宗教になるのであれば、未来のために「原初天理教」の文献をしっかり残すことは、とても大切な営みです。




 諸井氏は、「表明文書」というのは「本教の内容の如何なるものであるかを表明せんが為に、特に対外的な考慮から記された書き物」を意味するとしています。こうした表明文書を代表する文献史料として、諸井氏が最初に紹介しているのが「就御尋手続上申書(おたずねにつき てつづきもうしあげしょ)」です。これは「①対外的表明」の代表的な文献史料です。



 明治14年のご苦労の際に、丹波市分署並びに奈良警察署にほぼ同じ内容の手続書が提出されました。警察の取り調べに対して、答えた内容を文書にして提出したものです。この手続書は、前回紹介した「乍恐口上之覚」と同じく『稿本天理教教祖伝』に史料として記載されています。あまり気づかない人が多いようですが、一度確認してみてください。

註二

 就御尋手続上申書

                    大和国山辺郡新泉村平民  山沢良治郎

一、当国山辺郡三嶋村平民中山まつゑ祖母みきナル者赤キ衣服ヲ着シ家ニ者転輪王命ト唱ヘ祭り候始末就御尋問左ニ奉申上候

 此段去ル明治十二年五月比私義咽詰病ニ而相悩候ニ付医薬ヲ相用ヒ種々養生仕候得共頓ト功験無之ニ付転輪社ヘ参詣旁入湯仕候所早速全快仕候ニ付明治十三年一月比迄壹ケ月ニ壹度宛参詣致居候然ルニ前病気中自分相応之世話可致之心願ニ付仝一月比ヨリ壹ケ月中ニ日数十五日之蒸気湯之世話致居候処仝年八月来右中山まつゑ夫中山秀治存命中ニ中山秀治宅ヲ転輪王講社并ニ当国宇智郡久留野村地福寺教会出張所ト設定相成候ニ就而者私ヘ転輪講社取締并ニ講社出納方地福寺社長ヨリ被申付則辞令証モ所持罷在候且者中山秀治足痛ニテ引籠居候義ニ付仝人ヨリ依頼ニ而日々相詰居候所右秀治義者本年四月十日比病死後仝人家内始親族ヨリ依頼ニ付家事万端賄仕居候義ニ御座候然ルニ右詰中老母みきヨリ兼テ被申候ニ者

 四十四年以前ニ我月日ノ社ト貰受体内ヘ月日之心ヲ入込有之此世界及人間初而生シタルハ月日ノ両人ノ拵ル故人間ノ身内ハ神ノ貸物成ル此貸物ト云ハ 目ノ潤ハ月サマ是クニトコタチノ命暖ハ日サマヲモタリノ命皮繋ハクニサツチノ命骨ハツキヨミノ命飲喰出入ハクモヨミノ命息ハカシコ子ノ命右六神ノ貸物成ル故人間ニハ病気ト云ハ更ニ無之候得共人間ハ日々ニ貧惜憎可愛恨シイ立腹欲高慢此八ツノ事有故親ノ月日ヨリ異見成ル故悪敷所ヲ病トシテ出ル此神ヲ頼メハ何れモ十五歳ヨリ右八ツノ心得違讃下シテ願上レハ何事モ成就スル事ト被申候甘露台ト老母みき被申候ニ者人間始メノ元ハ地場之証拠是ハ人間之親里成故甘露台数拾三創立スル所明治十四年五月ヨリ本日迄ニ弐台出来上リ有之尤甘露台者石ヲ以テ作リ下石軽(マヽ)三尺弐寸上石軽(マヽ)壹尺貳寸六角高サ八尺二寸ニ御坐候然ルニ私共ニ於テ者参詣人ヘ対シ前記老母みき被申候義ヲ咄致候而己ニテ祈祷許候様者決テ仕間敷候右就御尋手続書ヲ以此段有体奉上申候也

 明治十四年九月十八日

 この「手続書」の前半は、提出者である山澤良治郎入信の経緯中山家とのかかわりを簡単に述べています。また、教祖の長男・中山秀司の没後は「家内始親族(かないはじめしんぞく)」の依頼によって、中山家の「家事万端賄仕居候(かじばんたん まかいないつかまつりおりそうろう)」と述べて、自分が代表して手続書を提出する旨を説明しています。この前半の記述も当時の状況を知るための記録としては、極めて貴重な史料だと言えるでしょう。

 しかし、「右詰中老母みきヨリ兼テ被申候ニ者(かねてもうされそうろうには)」と区切ってはじまる後半部は、当時の人々が教祖からどのような教えを受けていたのか、さらには、先人の人たちはそれをどう理解していたのかを知るうえで、とくに第一級の文献史料になっています。

 例年なら授業中に、皆さんと一緒に全文を読み下し、古い文献の読み方を確認しながら内容を説明していくのですが、残念ながらブログに音声を付けられる技量がありません。それぞれに頑張って、読んでみてください「右詰中老母みきヨリ兼テ被申候ニ者」とは、「右に述べたような中山家での生活のなかで、教祖から次のような話を聞いています」といった意味です。

 この区切りに続く後半部の内容は、次のように要約できるでしょう。

 教祖が「四十四年以前(明治14年の手続書なので、44年前は天保9年)」に「月日のやしろ」となり、「体内ヘ月日之心ヲ入込」ことなった。その教えによれば、この世界と人間は、月日/親神によって創造され、その守護のなかであらゆる生命は生かされて生きている。人間の体は親神からの「かしもの」であり、親神の十全の守護に満たされている。

 本来、人間に「病」はないが、親神の思召に沿わない(異見)八つの心得違い(ほこり)があるために、十全に満たされているはずの親神の守護をそのまま受け取ることができなくなる。このため、病で苦しむことになる。だから、心を入れ替えて親神の思召に沿うように勤めれば、必ずご守護をいただくことができる。15才以下の子どもの場合は、親が日常の心遣いを反省することが求められる。

 さらには、「人間始メノ元」である「地場之証拠」として「甘露台」を建設する。

 このとき、すでに2台まで出来ていた甘露台の建設は、この後とん挫して石は没収されることになりました。しかし、ここには基本的な教理の概要が、ほぼ現在の教義と変わらないかたちで述べられています。

 ここで取り調べの供述として、対外的に表明されている教理は、単なるご利益信心ではなく、甘露台が据えられる理想世界の実現を希求する、体系的な教説になっています。「御神前名記帳」の頃とは、かなり状況が変わっています。



 警察の取り調べのような、緊迫した状況のなかでもこのように淀みなく、基本的な教えの概要が明確に語られていることは注目に値します。少なくともこの時期には、教祖の身近な人々は、教祖を通して伝えられた親神の教えを体系的に理解し、教えの概要を他者に伝えることができるようになっていました。

 これは教祖ご自身が、この時期にある程度体系化された教えをまとめて何度もくり返して伝え、覚えるまで仕込むかたちをとっていたことと無関係ではないでしょう。宗教活動が認可制になり、未認可の宗教活動に制限が加えられる新しい社会制度のもとで、教祖が警察等に連行されてご苦労する当時の状況に即応するように、教祖は広く世界に教えを発信していきます。各地の講社は、同信の人々が集まって「つとめ」の歌や手振りを学ぶ場所であると同時に、教祖の伝える親神の教えを発信していく拠点の役割も担っていくことになりました。…講から教会へ

 こうして、各地で布教活動が活発になれば、さらに教祖のご苦労をが頻繁になります。この状況を打開するために、人々は教会を組織化して、宗教活動の認可を得ようとしました。しかし、宗教活動の認可を申請するためには、教えの内容を正式な文書のかたちで対外的に表明する必要があります。こうして、さらに別のかたちの「表明文書」が書き残されることになるのです。 

 次回はさらに、「②こふき本」と「③布教文書」の代表的な事例を紹介しながら、もう少し詳しくこの時期の状況を考えてみましょう。


 さらに復習したい人は、このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。


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2021年9月21日火曜日

天理教史特殊講義2・第2回


教祖ご在世当時の教理史/教会史


 初回の授業では、この講義の概要を説明しました。グーグルフォームの質問にもよく答えていましたが、「教理」「教義」の質問への解答にばらつきがありましたので、いま一度確認しておきます。模範解答の一つは、以下の通りです。

「教理」は、ある特定の宗派や教団の成員たちに共有された信仰上の教えのこと。
「教義」は、信仰上の教えを教会のような特定の組織によって権威づけたもの。

 こうした概念の区別は、なぜ重要なのでしょうか。一つの理由は教理史を中心にして天理教の歴史を辿るときに、この区別が必要とされるからです。とくに戦前の天理教の歴史を考える場合に、この区別は極めて重要な意味を持っています。

 完全に信教の自由が認められている現在の日本とは全く違って、明治維新以来の日本の政府は、初期には神道国教化政策を進めて宗教国家の樹立をはかり、その失敗によって宗教政策を転換し、名目上は信教の自由を認めた後も宗教活動に厳しい制約を加えました。

 戦前の日本では、宗教活動は「認可制」であり、未認可の宗教団体は「類似宗教/疑似宗教」として取り締まりの対象になりました。ちなみに、認可された宗教団体のカテゴリーは「神道系」「仏教系」「キリスト教系」「三教」だけであり、これらのカテゴリーに入らない宗教活動が認可されることはありませんでした。しかも「三教」のうち、キリスト教の存在が公式に認められるのは、かなり後の時代になってからです。

 天理教は、明治18年に神道系教派の一つである「神道(本局)」に部属する「天理教会」として組織化され、明治21年教会活動の公認を得ます。さらに明治41年に、所属していた教派である「神道(本局)」から独立して「天理教」という独立の宗教団体になりました(一派独立)。しかし、戦前は「神道系」の教派として活動していた/活動せざるを得なかったのです。

 このため、教会を設置した当初から所属団体である「神道(本局)」「教義」教祖の教えの違いをカモフラージュする必要に迫られました。その一方で、教祖は「おふでさき」を執筆し、現身をかくす直前まで独自の祭儀である「つとめ」の勤習をせき込み、極めて特殊な教理を説き続けます。一派独立したあとは、ある程度は独自の教説を説く自由を得ますが、戦時中は厳しい思想統制下で再び活動を制限されることになりました。

 戦前の天理教は、時代の荒波に翻弄されながら表向きの「教義」信仰上の「教理」二重構造化した活動を続けざるを得ませんでした。この状況が180度転換し、完全な信教自由の制度のもとで、「原典」にもとづく「天理教教典」を刊行できたのは、戦後の昭和24年になってからです。ちなみに、戦後の「天理教」「復元」を提唱して独自路線を明確にし、神道でも、仏教でも、キリスト教でもない「諸教系」の教団として、再出発することになります。

 この授業では、「原典」をもとに「教義」と「教理」が合致されるまでの天理教の教理史/教会史について、当時の政府の宗教政策時代背景に着目しながら考察していきます。

 近年では、かつて日本と中国、日本とアメリカの間に戦争があったことも知らない若者が増えていると聞くことがあります。歴史は、現在と未来を考えるための重要な手がかりです。皆さんの身近にある「原典」や「教典」の来歴について学ぶことは、これらのテキストを読み深めることに役立つでしょう。また、教会の歴史を正しく知ることは、これからの時代の天理教のあり方を考えるためのヒントを与えてくれるはずです。


教理史/教会史の史料

 それでは、「月日のやしろ」としての教祖の教えを人々はどのように理解し、その教えを他者に伝え世界に発信していったのでしょうか。この歴史を辿ることは、それほど簡単なことではありません。

 というのも「歴史」は、歴史的な事実を検証できる文献史料の存在とともに成立するからです。文字で書き記された史料を読み解くことで、はじめて歴史を語ることができます。文字が存在しない過去の時代を探る学問は、歴史学ではなくて考古学です。教祖が説いた教えを人々がどのように理解し、その教えを他者に伝えていたのかを歴史的に検証するためには、まず当時の人々が書き残した文献史料が不可欠になります。

 しかし、教理史/教会史の起点となる文献史料は、教祖の「ひながた」の晩年になるまで見つけることはできません。その理由の一つは、少なくとも教祖の「ひながた」の初期には、誰も教祖の言葉を「神の言葉」とは受け取らなかったことです。

*「ひながた」・・・立教から「現身をかくす」までの「月日のやしろ」としての教祖の歩みを、あらゆる人間が理想とすべき模範的モデル(雛型)と見なす教理。

 天保9年(1838)10月26日立教以来、明治20年(1887)正月26日(陽暦・2月18日)に「現身をかくす」までのほぼ50年のあいだ、教祖は「月日のやしろ」として、親神の教えを伝え続けました。しかし、立教のあと教祖が中山家の私財を人々に限りなく施し、家屋敷も手放す状況になると、近在の人々や親戚たちは狐やタヌキの憑き物ではないかと疑い、誰も寄りつかなくなる状況が長く続きます。



 突然、「神になった」と宣言し、このことは「世界のはじまりの時から決まっていた」と語ること自体は、やろうと思えば誰にでもできます。しかし、周囲の人々がそう宣言した人を「神」であると認め、その言葉を神のメッセージであると信じるようになることは、決して簡単なことではありません(というか、ほとんどの場合に不可能です)。

 皆さんのなかに、少しでも布教活動に関わった経験のある人があれば、きっとよく分かるはずです。「このパンフレットを読んでください」と言って手渡すのは、それぼど難しいことではありませんが、「なるほど、素晴らしい教えですね」と相手が心をこちらへ向けてくれるのは、千枚・2千枚のパンフレットを配っても一度あるかないかの出来事です。「ひながた」とされる50年間は、教祖の周囲の人々が、教祖の教えを「神の言葉」であると確信できるようになるための期間でもありました。

 天理教の教祖の場合は、立教から現身をかくすまでの50年間のうち、ほぼ半分の期間はただ困窮している人々をたすけ続けるだけで、相手から神のように崇められることはありませんでした。しかし、家財や家屋敷を人々に施し、残った小さな建物に暮らしながら家族揃って懸命に働き、自分が明日食べる米も人々に施しながら陽気に暮らし続けるなかで、周囲の見方が変わってきます。

「をびや許し」(安産の守護)を「道あけ」として、人々が教祖を「生き神様」として崇め、慕い寄ってくるようになるのは、幕末の文久・元治・慶応年間のことになります。教祖はこの頃、すでに60代になっていました。このため、「月日のやしろ」となられてから20~30年くらいの期間は、「月日のやしろ」としての教祖の教えを人々はどのように理解し、その教えを他者に伝え、世界に発信していったのか、といった問いに答える文献史料は、ほぼ残されていないのです。

 さらには、教祖を「生き神様」として慕い寄る人々が増えてきても、それは従来のご利益を求める信心であって、教祖の言葉をこの世界の真実を伝える神の言葉として受けとめ、理想の世界の実現へ向かう道筋を広く世の中に伝えていくような営みは行われませんでした。元治元年に「つとめ場所」(最初に建設された神殿)の普請が行なわれた際、教祖の指示に従って大きな事件となり、ご利益信心の人々が離れていった出来事などは、当時の人々の信仰のあり方をよく表しています。

 教理史/教会史について語ることを可能にしてくれるような文献史料が登場してくるのは、もう少し後の時代になるのです。


教祖ご在世の時代の教理史/教会史

 ただし、多くの人々が集まるようになった幕末の頃には、少しは文献史料が残されはじめます。代表的な文献史料は、慶応3年4月~5月までの参詣者の名簿を書き記した「御神前名記帳」です。この記録には、1カ月余りの期間に参詣した2,000名を超える人々の名前が記されており、その傍らには居住地や年齢、祈願の内容(多くが病名)などが書き添えられています。シンプルに書き添えられた病名からは、当時の人々が教祖に求めていた祈願の内容が分かります。また、名前や居住地の記載等は、どのような人々が集まってきていたのか、類推する手がかりを与えてくれます。




 最も参詣者の多い4月26日は、156名の名前が記されており、平均すると一日60名余りの人々が中山家を訪れています。この記録は、単なる名簿以上に当時の状況を教えてくれる史料になっています。かつて、天理教校本科の学生であった頃に、写真版で原本を読む機会がありました。古い文献には、その内容以上に文字や文献の体裁など、原本に触れることでしか得られない情報が沢山つまっています。歴史に興味のある人は、天理教関係の文献史料自体にも、せひ関心を持ってください。



 また、これほど多くの人々が集まるようになると、近在の山伏(修験者)医師などによる妨害が目に余るようになります。江戸時代の修験者や祈祷寺院の役割は、現在の医者に近い側面があり、教祖のもとに病人を含む多くの人々が集まるのは不都合なことでした。このため、教祖の長男・中山秀司は、古市代官所を通して領主の添書を得て、京都の吉田神祇管領活動の認可を願い出ます。『稿本天理教教祖伝』(以下『教祖伝』)には、このときの願い出の文書である「乍恐口上之覚(おそれながら こうじょうのおぼえ)」を貴重な文献史料として記載しています。


註一 古市代官所へ呈出した文書の控
 
  乍恐口上之覚          庄屋敷村 願人 善右衞門
 
一、私儀従来百姓渡世之ものニ御座候、然ルニ三十ケ年余己前、私幼少
之頃癇病(風毒)ニ而、足脳ミ候ニ付、亡父善兵衞存命中、私方屋敷内
ニ天輪王神鎮守仕信心仕(中略)然ルニ右信心之儀諸方江相聞近来諸方
ヨリ追々参詣人有之就而ハ、神道其筋ヨリ故障被申立候而ハ、迷惑難渋
仕候ニ付此度京都吉田殿江入門仕置度奉存候ニ付乍恐此段御願奉申上候、
何卒御情愍を以、吉田殿江之御添翰被為下置候様奉願上候、右之趣御聞
届被為成下候ハヽ難有仕合可奉存候、         以上
 
 慶応三卯年六月            庄屋敷村
                      願人   善兵衞
                      同村年寄 庄作
                      同村   平右衞門
                      同村庄屋 重助
服部庄左衞門様
(備考 後の方の「願人 善兵衞」は、「願人 善右衞門」の誤記と
思われる。)

『教祖伝』には、こうした文献史料が原文でしばしば記載されています。貴重な文献が多いので、よく確認してください。

 ここに「善右衞門」とあるのは、中山秀司のことです。江戸時代の庶民には名字はありませんので、中山家のような庄屋格の家ではしばしば名前を受け継ぎました。「善兵衞/善右衞門」は、「綿屋」の屋号とともに受け継がれた名前です。

 ここには、自らの足の病をもとにした立教の経緯とともに、「近来諸方ヨリ追々参詣人有之就而ハ、神道其筋ヨリ故障被申立候而ハ、迷惑難渋仕候ニ付(近年、方々から参詣人が集まるようになって、さまざまな方面から妨害を受けるようになり、迷惑して困っていますので)」というように、このときの申し立ての理由が述べられています。また、ここで「中略」となっている部分には、本文では信仰の対象となる神に関する記述があります。しかし、吉田神道の「神代七代(天神七代)」に合わせて記述されている神の説明は、教祖の教えを直接に伝えたものとは言い難い内容でした。

 この願い出は、慶応3年7月23日付けで認可を得ました。しかしその際、教祖は「吉田家も偉いようなれども、一の枝の如きものや。枯れる時ある。」と仰せられます。このお言葉の通り、明治維新によって江戸時代に「本所」として全国の神職取締役となっていた吉田家の役割は廃止され、吉田家のお墨付きも意味を失うことになりました。

 この「乍恐口上之覚」は、外部の機関に対して教祖の教えにもとづく活動を公に表明した最初の文書であり、教理史/教会史にとって極めて貴重な史料であることは確かです。しかし、教理史/教会史の起点となる文献史料が本格的に登場してくるのは、もう少しあとの時代になります。

 具体的には、明治10年代以降です。そして、急激に増える文献史料は、すぐに数えることもできないほどの分量になりました。その理由については、これからの講義で詳しく説明することにしましょう。

*第1回の講義のブログは、下の「ホーム」ボタンからアクセス可能です。追加登録等の理由で見逃した人は、ブログを確認してグーグルフォームに書き込んでください。


 さらに復習したい人は、このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。


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2021年9月14日火曜日

天理教史特殊講義2 第1回


天理教史研究と教理史/教会史

 皆さん。こんにちは。天理教学特殊講義2/天理教史研究を担当する、宗教学科の岡田正彦です。この授業は宗教学科の2~4年次生を対象にした選択必修科目です。全学開放科目ですので、他学部・他学科の人たちも受講できます。

 この授業では、幕末から明治期に成立し、大正・昭和の日本の発展期に大きく広がり、太平洋戦争の激動期を経て現在に至る天理教の歴史について、背景となる日本の近代史を意識しながら、詳しく紹介していきます。

 この授業の目的は、次のようなものです。

天理教の教会史と教理史の展開を辿りながら、明治・大正・昭和初期における日本の社会状況に、天理教史を位置づけて理解する。

 また、次のような講義概要を掲げています。

 明治・大正・昭和初期という激動の歴史のなかで、現在の教会制度の基盤を形成してきた天理教の歴史は、近代的宗教概念の導入と定着により、目まぐるしく宗教政策の転換をくり返した近代日本の政治体制や社会状況と密接に関わっている。

 また、一方でその歴史過程には、教祖の深い思惑や意志の反映を感じる場面が少なくない。この授業では、ご存命の教祖の思召をたずねる「信仰史」の立場から、近代日本における天理教の歴史を辿っていきたい。

 ここで「信仰史」の立場としているのは、天理教の信仰を前提として歴史的事実と向き合う姿勢のことです。天理教の信仰に基づけば、明治20年正月26日(2月18日)に「現身をかくした」教祖は、現在も存命のままはたらき続けているとされています。そうだとすれば、天理教の教祖の伝記は、明治20年に終わったのではなくて、これまでも/これからも続いていくことになるでしょう。

 この授業を履修する2年次生以上の皆さんは、1年次に「教祖伝」の概略を学びました。この授業では、天理教史を存命の教祖と結びつけて考えるような「信仰史」の立場を意識しながら、主に教祖伝の「第十章 扉ひらいて」以降の天理教の歴史を現代に近い時点まで辿っていきます。



『稿本 天理教教祖伝』に続いては、初代真柱の生涯をまとめた『稿本 中山眞之亮伝』が刊行されています。天理教教会本部が編纂する天理教の「正史」(天理教教会本部の権威のもとで編纂・刊行される史伝)は、教祖伝➡初代真柱伝➡二代真柱伝・・・というように、これからも連綿と紡がれていくでしょう。




 しかし、この「正史」は未だ刊行の途上です。『稿本 中山眞之亮伝』に記された天理教の歴史は、初代真柱の生涯とともに、大正3年でとまっています。

 現代に至るまでの「天理教史」を辿るためには、「青年会史」「婦人会史」のような組織や各地の教会の「教会史」、学校などの諸機関の歴史を総合的に俯瞰する必要があります。また、天理教の機関誌である『みちのとも』『天理時報』、その他の出版物に残された記録をもとに歴史を辿ることも大切でしょう。

 天理教の教会や諸機関から刊行されている逐次刊行物には、月刊や週刊、季刊などの違いはあっても戦前から戦後まで継続的に刊行されている出版物が少なくありません。これらを網羅的に整理することは、近代日本の宗教史、文化史、社会史にも貢献することになるかも知れません。

 天理教の歴史は、幕末から明治維新、大正・昭和という激動の時代を駆け抜けた近代日本の歴史と不可分であり、教会の設立・公認から一派独立へといった制度・組織としての「天理教」の歴史を振り返る場合でも、政治体制の変化や法律の制定、社会制度や文化の傾向、思想の潮流といった時代背景を無視することはできないのです。

 天理教史の課題となるテーマは多岐にわたっていますが、この授業ではとくに、教理史/教会史を意識しながら、天理教の歴史を辿っていきます。


教理史/教会史の射程

「教理」とは、ある特定の宗派や教団の成員たちに共有されている、信仰上の教えのことです。先ほど述べた、教祖の「存命の理」などは、その典型的な例だと言えるでしょう。特定の信仰を共有する人々にとっては信じるべき教えであっても、信仰を共有しない人々にとっては納得し難い教えであることもあります。

 このような「教理」を人々はどのように語り、他者に伝えてきたのか。この教えを伝えるプロセスは、共通の教えを真理であると信じる人々の営みが広がっていく過程と重なっています。つまり「教理」を伝える人々の営みの歴史/教理史は、教祖を通して伝えられた親神の教えを真理であると信じる人々の活動の歴史/教会史と重なり合っているのです。

 特定の教えを信じる人々の営みを具現化するのが「教会」であり、教理史と教会史は同じコインの表裏のような関係にあると言ってもよいでしょう。

 この授業で辿っていく【教理史/教会史の射程】は、次のようなものです。



 天保9年(1838)10月26日の立教以来、「月日のやしろ」となられた天理教の教祖は、明治20年に現身をかくすまで、自らの口・筆・行いを通して親神の思召を人々に伝え、あるべき人間の姿を身をもって示しました。天理教の信仰者にとっては、教祖の書き残した文書や語った言葉、活動の足跡はすべて、神の意志を直接に伝えるメッセージであると考えられています。

 それぞれの時代の人々は、このメッセージをどのように受けとめ、他者へ伝えてきたのか。たとえば、性別や家柄、身分の違いなどにかかわらず、すべての人間は本質的に平等であると説く教祖の言葉は、現在に生きる我々と幕末・明治維新の時代に生きる人々では、まったく違う響きを持って受けとめられたことでしょう。さらにそのメッセージを社会に発信していく場合には、もっと時代や社会の制約を受けたはずです。

 明治維新から大日本帝国憲法の成立、帝国主義の時代から過酷な戦争の時代を超えて、戦後の民主主義の時代に至る激動の歴史のなかで、人々は教祖を通して伝えられた親神の教えをどのように理解し、人々に伝え世界に発信してきたのか。この足跡をたどることは、教祖の伝える理想を実現するために組織や制度を確立し、布教活動を行なってきた「教会」の歴史を辿る営みと切り離すことはできません。


天理教史と近代日本の宗教政策

 また、明治維新後の近代日本においては、大日本帝国憲法のもとで「信教自由」を保障する一方で、天皇を中心とする政治的権威を神聖化する特異な日本型政教分離/国家神道体制が成立していきます。二転三転する政府の宗教政策のもとで「教会」を設立し、組織や制度を確立していく天理教会/天理教の歴史は、この時代の宗教政策や法制度と切り離して論じることはできません。

 とくに天理教の教理史を考える場合には、戦前の日本の特異な宗教政策のもとで形成されてきた天理教会の歴史的変遷が、極めて重要な意味を持っています。

「教理」を教会のような特定の組織によって権威づけたとき、その教えは「教義」となります。たとえば、ローマ法王がある教理解釈を正式に表明すれば、これは教会の権威によって定められた教義になります。天理教の場合は、真柱教義の裁定者となっています。

 しかし、明治維新以降の激動の時代のなかで、天理教の教義として正式に表明される教えは、教祖から直接に伝えられた教えと直結できない時期が長く続きました。外部に天理教の教義として表明されている教えが、実際の布教の場面で説かれている教理と一致しない時期も続きます。しばしば、教理教義が乖離して二重構造化する、複雑な歩みを重ねた天理教の歴史を辿りながら、近代日本における宗教と政治の関係についても理解を深めていきたいと思っています。


教理史/教会史の時代区分

 具体的には、次のような時代区分を設けて教理史/教会史の足跡をたどっていく予定です。


1. 教祖御在世時代
―対外的表明文書・「こふき」・布教文書―
2. おさしづ時代
―教団の形成と教理理解の深化―
3. 一派独立と教学の高揚期
―大正デモクラシーと第2世代の登場―
4. 原典公刊から「革新」の時代へ
―原典の公刊へ―
5. 「復元」のあゆみ
―「元」をたずねる―
6. 教義学としての教理研究の確立
―「月日の教」の意義を求めて―

 幕末・明治維新の激動期に広く社会へ発信された教祖の教えは、日本の近代社会の成立期に大きく広がり、さまざまな政治的・社会的動向と密接に関わりながら、特異な歴史的条件のもとで独自の展開を遂げてきました。

 この授業では、教祖による教えの展開・伝達過程を意識しながら、明治・大正・昭和初期の教理史/教会史を辿っていきます。とくに、国家の宗教政策が目まぐるしく変遷するなかで、教会設置・公認から一派独立への歩みを進めてきた天理教の歴史を深く学び、現行の「天理教教典」や「原典」の意義について、理解を深めてもらいたいと思っています。

次回は、まず教祖ご在世の時代からはじめましょう。教祖から直接に教えを受けた人々は、まず教祖の教えをどのように受けとめ、それを他者に伝え、広く世界に発信してきたのでしょうか。


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