まず、もう一度この授業の中心的なテーマである、教理史/教会史の射程について確認しておきます。
「月日のやしろ」とは、親神の思召を直接に伝える立場です。天保9年に教祖が「月日のやしろ」になられてから―少なくとも信仰者の立場から見れば―教祖(おやさま)が筆に記したり、人々に伝えたりしてきた教えは親神の言葉そのものであり、日々の行いは正しい人間の生き方のモデルなのです。
いわゆる「啓示」として、「啓(ひら)き示され」てきたこの世界の真理を周囲の人々はどのように理解し、それを他者に伝え、世界に発信してきたのか。教祖を通して開示された真理は、極めてユニークであり、ときには一般的な社会通念を越える内容を含んでいます。この真理を特定の時代状況のもとで理解し、他者に伝えてきた人々の営みを歴史的に辿ることが、ここでの「教理史」の営みです。
【啓示】神または超越的な存在より、真理または通常では知りえない知識・認識が開示されること。
教祖の教え/真理を他者に伝えていく営みは、その営みに従事する人々の共同体の形成と切り離すことはできません。このため、この講義では教理史と教会史を結びつけながら、「原典」にもとづく『天理教教典』が刊行されるまでの歴史を辿っていくことにしました。
しかし、前回確認したように、教理史のもとになる文献史料を見いだすことができるのは、教祖の「ひながた」の晩年のことになるのです。
教理文書の増加と内的/外的要因
しかし、これも前回の講義の最後に書きましたが、教理史の史料になる文献は、ある時期から一気に急増することになります。とくに「ひながた」の晩年の明治14・15年くらいには、教祖の教えを当時の人々がどのように理解し、他者に伝えていたのかを知るための文献史料が、数えきれないほど増えはじめます。
これには、内的/外的両面の要因がありますが、理解のためのキーワードの一つは「①対外的表明」です。「表明」とは、「意見や意志などを人の前にはっきりと表し示すこと」ですので、ここで「対外的表明」と言うのは、「教祖の教えを知らない人たちに、親神のメッセージをはっきりと述べ、示すこと」くらいの意味でしょうか。
教祖が「おふでさき」の執筆をはじめるのは明治2年(1869)ですし、「つとめ」を教え始めるのは、これに先立つ慶応2年(1866)からです。教祖による教え/真理の「啓示」は、すでにこの時期から本格化していますが、明治10年代になるまでは、先人の方々の覚書程度の記録しか教理文書は残されていません。教祖の教えを受けた人々が、自らの理解をもとに教理を書き残すようになるのは、まず「外」からの圧力によって、「わたしたちの信じている”教え”は、このようなものです」と書き記すことが求められたからでした。…外的要因
具体的に言うと、まず教祖のご苦労がはじまるなるなかで、県庁や警察に呼び出された人たちが取り調べを受けて、「手続書」などの書面を提出しました。教祖のご苦労がより頻繁になるにつれて、こうした文書は増えていきますが、これらのなかに「教祖の教えは・・・」とか「教祖は・・・」といった説明が加えられていきます。これらは、正式に書き記された文献なので、当時の人々が教祖の教えをどのように理解し、他者に伝えようとしていたかを知るうえで、極めて貴重な文献史料です。
*最初のご苦労は明治7年ですが、明治14年頃から教祖のご苦労がより頻繁になっていく理由としては、この頃急速に教えが広がっていくことと同時に、明治政府の宗教政策の転換や新しい法制度の成立が深く関わっています。このことについては、再来週くらいに一度ゆっくり説明する時間を設けるつもりです。
また、この時期(明治14年頃)に教祖は「こふきを作れ」と仰せになって、身近な人々に自ら理解していた教祖の教えを書き記すように命じます。このときに書き残された、教祖の教えの覚書とその写本のことを「②こふき本」と言います。これが二つ目のキーワードです。「こふき本」も教祖の教えの内容を教えを聞いた人々が理解し、「表明」した文献であり、教理史の起点になる文献史料です。…内的要因
さらには、この時期には全国各地で布教活動が活発になります。各地に設立される講社などでは、教理の覚書や入信した人たちに基本的な教えを伝えるための文書などが広く書き残されます。これらの「③布教文書」もまた、教理史の起点となる貴重な文献史料です。これが三つ目になります。…内的/外的要因
これら三つの要因が相互に作用するかたちで、この時期から教理文書が広く書き残されていくことになるのです。
就御尋手続上申書
明治14・15年には、教えはかなり広い地域に伝わっています。5が2倍になっても10にしかなりませんが、50が2倍になれば100になります。「ひながた」の初期とは、教えの広がり方のペースが変わっています。また、この時期にはすでに鉄道網は全国に広がり、郵便制度も確立していました。地域的にも道は大きく広がっていきます。
各地の講社等に残された文書を含めて、すべての教理文書を網羅するのは、決して容易ではありません。このため、この授業では『復元』(第4号)に掲載された、諸井慶徳「原初天理教に於ける表明文書」に紹介されている教理文書をもとに、①~③の文書の傾向を考えてみましょう。
*『復元』は、教祖伝、真柱伝、本席伝、高弟伝、教会史等の史料並びに教義に関する研究の集成を目的とする逐次刊行物であり、昭和21年(1946)4月の創刊号から刊行が続いている。
「原初天理教に於ける表明文書」は、教祖ご在世の時代を「原初時代」として、1,000年後、2,000年後の未来を見越して、初期の天理教の教理文書をとまとめています。2,000年以上の歴史を経た、仏教やキリスト教では、教祖や教祖の直弟子時代の文書はしっかり残っていません。
「原初時代」という言葉は。仏教研究の用語である「原始仏教/根本仏教」などを意識したものではないでしょうか。「原始仏教」の時代を知るための文献史料は、残念ながらまったく残されていません。仏教の場合は、釈迦本人の言葉や直弟子たちの言葉をそのまま知る術は、もう失われてしまいました。天理教がいつか世界宗教になるのであれば、未来のために「原初天理教」の文献をしっかり残すことは、とても大切な営みです。
諸井氏は、「表明文書」というのは「本教の内容の如何なるものであるかを表明せんが為に、特に対外的な考慮から記された書き物」を意味するとしています。こうした表明文書を代表する文献史料として、諸井氏が最初に紹介しているのが「就御尋手続上申書(おたずねにつき てつづきもうしあげしょ)」です。これは「①対外的表明」の代表的な文献史料です。
明治14年のご苦労の際に、丹波市分署並びに奈良警察署にほぼ同じ内容の手続書が提出されました。警察の取り調べに対して、答えた内容を文書にして提出したものです。この手続書は、前回紹介した「乍恐口上之覚」と同じく『稿本天理教教祖伝』に史料として記載されています。あまり気づかない人が多いようですが、一度確認してみてください。
註二
就御尋手続上申書
大和国山辺郡新泉村平民 山沢良治郎
一、当国山辺郡三嶋村平民中山まつゑ祖母みきナル者赤キ衣服ヲ着シ家ニ者転輪王命ト唱ヘ祭り候始末就御尋問左ニ奉申上候
此段去ル明治十二年五月比私義咽詰病ニ而相悩候ニ付医薬ヲ相用ヒ種々養生仕候得共頓ト功験無之ニ付転輪社ヘ参詣旁入湯仕候所早速全快仕候ニ付明治十三年一月比迄壹ケ月ニ壹度宛参詣致居候然ルニ前病気中自分相応之世話可致之心願ニ付仝一月比ヨリ壹ケ月中ニ日数十五日之蒸気湯之世話致居候処仝年八月来右中山まつゑ夫中山秀治存命中ニ中山秀治宅ヲ転輪王講社并ニ当国宇智郡久留野村地福寺教会出張所ト設定相成候ニ就而者私ヘ転輪講社取締并ニ講社出納方地福寺社長ヨリ被申付則辞令証モ所持罷在候且者中山秀治足痛ニテ引籠居候義ニ付仝人ヨリ依頼ニ而日々相詰居候所右秀治義者本年四月十日比病死後仝人家内始親族ヨリ依頼ニ付家事万端賄仕居候義ニ御座候然ルニ右詰中老母みきヨリ兼テ被申候ニ者
四十四年以前ニ我月日ノ社ト貰受体内ヘ月日之心ヲ入込有之此世界及人間初而生シタルハ月日ノ両人ノ拵ル故人間ノ身内ハ神ノ貸物成ル此貸物ト云ハ 目ノ潤ハ月サマ是クニトコタチノ命暖ハ日サマヲモタリノ命皮繋ハクニサツチノ命骨ハツキヨミノ命飲喰出入ハクモヨミノ命息ハカシコ子ノ命右六神ノ貸物成ル故人間ニハ病気ト云ハ更ニ無之候得共人間ハ日々ニ貧惜憎可愛恨シイ立腹欲高慢此八ツノ事有故親ノ月日ヨリ異見成ル故悪敷所ヲ病トシテ出ル此神ヲ頼メハ何れモ十五歳ヨリ右八ツノ心得違讃下シテ願上レハ何事モ成就スル事ト被申候甘露台ト老母みき被申候ニ者人間始メノ元ハ地場之証拠是ハ人間之親里成故甘露台数拾三創立スル所明治十四年五月ヨリ本日迄ニ弐台出来上リ有之尤甘露台者石ヲ以テ作リ下石軽(マヽ)三尺弐寸上石軽(マヽ)壹尺貳寸六角高サ八尺二寸ニ御坐候然ルニ私共ニ於テ者参詣人ヘ対シ前記老母みき被申候義ヲ咄致候而己ニテ祈祷許候様者決テ仕間敷候右就御尋手続書ヲ以此段有体奉上申候也
明治十四年九月十八日
この「手続書」の前半は、提出者である山澤良治郎の入信の経緯や中山家とのかかわりを簡単に述べています。また、教祖の長男・中山秀司の没後は「家内始親族(かないはじめしんぞく)」の依頼によって、中山家の「家事万端賄仕居候(かじばんたん まかいないつかまつりおりそうろう)」と述べて、自分が代表して手続書を提出する旨を説明しています。この前半の記述も当時の状況を知るための記録としては、極めて貴重な史料だと言えるでしょう。
しかし、「右詰中老母みきヨリ兼テ被申候ニ者(かねてもうされそうろうには)」と区切ってはじまる後半部は、当時の人々が教祖からどのような教えを受けていたのか、さらには、先人の人たちはそれをどう理解していたのかを知るうえで、とくに第一級の文献史料になっています。
例年なら授業中に、皆さんと一緒に全文を読み下し、古い文献の読み方を確認しながら内容を説明していくのですが、残念ながらブログに音声を付けられる技量がありません。それぞれに頑張って、読んでみてください。「右詰中老母みきヨリ兼テ被申候ニ者」とは、「右に述べたような中山家での生活のなかで、教祖から次のような話を聞いています」といった意味です。
この区切りに続く後半部の内容は、次のように要約できるでしょう。
教祖が「四十四年以前(明治14年の手続書なので、44年前は天保9年)」に「月日のやしろ」となり、「体内ヘ月日之心ヲ入込」ことなった。その教えによれば、この世界と人間は、月日/親神によって創造され、その守護のなかであらゆる生命は生かされて生きている。人間の体は親神からの「かしもの」であり、親神の十全の守護に満たされている。
本来、人間に「病」はないが、親神の思召に沿わない(異見)八つの心得違い(ほこり)があるために、十全に満たされているはずの親神の守護をそのまま受け取ることができなくなる。このため、病で苦しむことになる。だから、心を入れ替えて親神の思召に沿うように勤めれば、必ずご守護をいただくことができる。15才以下の子どもの場合は、親が日常の心遣いを反省することが求められる。
さらには、「人間始メノ元」である「地場之証拠」として「甘露台」を建設する。
このとき、すでに2台まで出来ていた甘露台の建設は、この後とん挫して石は没収されることになりました。しかし、ここには基本的な教理の概要が、ほぼ現在の教義と変わらないかたちで述べられています。
ここで取り調べの供述として、対外的に表明されている教理は、単なるご利益信心ではなく、甘露台が据えられる理想世界の実現を希求する、体系的な教説になっています。「御神前名記帳」の頃とは、かなり状況が変わっています。
警察の取り調べのような、緊迫した状況のなかでもこのように淀みなく、基本的な教えの概要が明確に語られていることは注目に値します。少なくともこの時期には、教祖の身近な人々は、教祖を通して伝えられた親神の教えを体系的に理解し、教えの概要を他者に伝えることができるようになっていました。
これは教祖ご自身が、この時期にある程度体系化された教えをまとめて何度もくり返して伝え、覚えるまで仕込むかたちをとっていたことと無関係ではないでしょう。宗教活動が認可制になり、未認可の宗教活動に制限が加えられる新しい社会制度のもとで、教祖が警察等に連行されてご苦労する当時の状況に即応するように、教祖は広く世界に教えを発信していきます。各地の講社は、同信の人々が集まって「つとめ」の歌や手振りを学ぶ場所であると同時に、教祖の伝える親神の教えを発信していく拠点の役割も担っていくことになりました。…講から教会へ
こうして、各地で布教活動が活発になれば、さらに教祖のご苦労をが頻繁になります。この状況を打開するために、人々は教会を組織化して、宗教活動の認可を得ようとしました。しかし、宗教活動の認可を申請するためには、教えの内容を正式な文書のかたちで対外的に表明する必要があります。こうして、さらに別のかたちの「表明文書」が書き残されることになるのです。
次回はさらに、「②こふき本」と「③布教文書」の代表的な事例を紹介しながら、もう少し詳しくこの時期の状況を考えてみましょう。